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第一章 → 一枚の写真に思う 第二章 → 母校の地、ルーツを探る。 第三章 → 至誠一貫の流れ |
至誠一貫、歴史の流れ ある日、旧制三期堀弥八郎先輩からの手紙から、母校校舎の歴史の旅が始まった。 昭和十五年四月三〇日、第三東京市立中学校は始めての入学式を西巣鴨の今の地で行った。 そして昨年東京都立文京高校として七〇周年を迎えた。学校の歴史は七〇年だが、その創設の地には、多くの賢人たちのゆかりの地でもあった。そもそもは真宗大谷派が西巣鴨の地に真宗中学を開校したのが始まり。遡れば浄土真宗開祖の親鸞聖人に行き着くことになる。江戸時代、寛政の改革をなした松平定信、明治時代日本に資本主義の父と言われる渋沢栄一、そして関東大震災で東京の復興を指揮した後藤新平などの偉人の関係も垣間見られる。 母校の校訓「至誠一貫」は孟子の「至誠にして動かざる者いまだこれあらざるなり」によるものだが、「真心(まごころ)をもって一生を生きていく」という意味と言われる。人を救う教えや福祉や渋沢翁の「仁」にも合い通じる部分があり、母校の地に至誠一貫の歴史の流れを強く感じる次第だ。 第一章 一枚の写真に思う 埼玉の先人、渋沢栄一翁を顕彰した記念館を訪れた際に貰った記念パンフレットの一枚の写真に私はびっくりさせられた。私が昭和17年4月に入学した中学校の校舎がそこに写っているではないか。なぜだろう?その謎解きを始めることにした。 渋沢栄一と東京養育院 思えば朝日の差し込む教室だった。机の上に射す光の影は、日時計のようになり、苦手授業では机の上の光線の位置が気になった。昭和18年の2年の時、アッツ島守備隊が玉砕。お寺の本堂みたいな講堂で校長より訓話があり英霊に黙祷した後、全員で「海ゆかば」を悲壮な気持ちで斉唱した校舎だ。おぼろげな、六十年以上も前の記憶 を思い起こしてみた。この写真の説明には、東京市養育院巣鴨分院を訪問された「高松宮宣仁親王殿下と渋沢栄一翁」とある。その背景に問題の建物が写っている。翁の自伝によれば東京市養育院は、明治5年に創立。幾多の変遷を経て、本院は明治26年に大塚辻町に本院を建築。在院者は約5百人。行路病人、窮民、児童だった。さらに明治41年に巣鴨村に分院を作り児童全部を移した。ここが後に我が母校へと発展したと思う。本院は板橋に移り現在は、老人医療の総合的な高齢者医療機関となりなっている。 我が母校・第三東京市立中学校は、昭和15年に創設され、私は昭和17年に入学した三期生だ。養育院のことは何も知らなかった。私が3年生の時、太平洋戦争が切迫し我々もお国のために動員され、赤羽の工場で働いた。月謝を納める代わりに、給料を貰う立場になり、学校が管理する郵便貯金通帳に、給料が振込まれ、見せてくれた。買うものがなく有難みはなかった。 |
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大正ロマンが溢れてた木造校舎 サイパン島が米軍に占領され、日本本本土が爆撃されるようになった。学校は4月13日の東京大空襲の時、焼夷弾が落ち焼けてしまった。古き大正ロマンが溢れてた木造校舎は、悲しいかな地上から姿を消してしまい、心の中にしか残っていない、幻のものになってしまった。私は建物の写真を見て、窓の開閉をガラス戸を上下に動かしたことと、壁が一定の幅の板張りで出来ていること、また両者が東京市が絡んでいることとでわが母校である確信を持った。 授業は養育院の半分で開始 送られてきた紫筍に、創立に参加された佐々木先生(当時96歳・英語)の手記がり、「母校は第一東京市立中学校(現・九段中高校)の川島源治教頭が校長に任命され、入学式は4月30日。授業は5月1日から西巣鴨の養育院の半分を校舎として行われた。開校時には、養育院の生徒が半分の校舎を使っていて、寮舎も保母もいたので、いささか不自由なこともあった」とある。佐々木先生の手記を読み、初めてパンフレットで見た写真の意味が分かった。私の記憶が正しかったのだ。 戦後、巣鴨の焼け跡のバラックで、寒いなか震えながら4年生として授業を受け、5年生では水道橋近くの元町小学校に移り卒業した。佐々木先生から卒業に際し、私たちにはなむけの言葉が贈られた。「COMMENCEMENT」だ。ご存知のように「卒業は終わりでなく、始まりだ」と教えてくれた。 渋沢翁の実業界で活躍は有名だが、このように社会事業にも力を入れていたことを私は知らず、頭が下がる思いをした。多忙ななか毎日のように飛鳥山の自宅から本院、分院に顔を出し、及ばずながら微力を尽くしたとある。終戦後都電が動かず、王子駅から巣鴨新田まで下駄を履き歩いて通ったが、渋沢翁も通った道だと思ったら、私も少しは発奮して社会の役に立つ人間になっただろう。気のつくのが遅すぎた。私は東京で生まれ育ち、小学生の時、よく飛鳥山へ遊びに行った。そこの滝野川よりに渋沢邸があるのは、その頃から知っていたが、庶民には縁のない立派な人のお屋敷だと思っていた。現在お庭が開放されているので、一度見学に行き翁の気品に触れたいものだ。(堀 弥八郎、三期B)
第二章 母校の地、ルーツを探る。 母校発祥の地は東京養育院分院跡地であることが、堀さんの調べで判った。ではその養育院の発祥は。養育院が始まったのは明治5年。ロシア皇太子来日で明治政府は、国家の対面上、浮浪者や病弱者、子供たちを東大赤門そばの加賀百万石の屋敷の長屋に収容。それが養育院の始まりと言われる。その後浅草、神田と移転。明治8 年上野護国院に移転し「東京府養育院」となり、院長に渋沢栄一が就任した。 政治は論語の「仁」に基いて行なう 渋沢栄一はパリ万博に幕府代表で訪問。慈善院がどの町にもあるのを知り、「働く力のない人は公的に面倒をみるのが当然」と言う考えを身につけた。一方東京府議会では養育院について経済学者・府会議員の田口卯吉が「貧乏で働けない人を養育することは結果的に怠け者を作ることになる」と税金を使うことに反対。それに対して論語の素養を持つ渋沢栄一は「政治は論語でいう仁に基いて行なうのは当然」と公立で続けることを主張。渋沢の粘り強い訴えで明治23年東京市営となり、大塚辻町に斬新な施設を建て、児童100人を含む約5百人を収容した。 母校西巣鴨の地に真宗中学を開設 元ガン研の近く、北大塚3丁目交差点前の「宮仲公園」に「大谷大学開学の碑」が建っている。その碑の裏側に真宗大学、真宗中学跡地の図があり、「真宗中学校(現都立文京高校)」と記されている。その真宗中学は東本願寺が東京に設置した中学。真宗大学は明治34年に東京巣鴨で開校。その7年前、明治27年東京に真宗中学寮を開設。明治32年私立中学の認可を得、土地狭隘のため敷地として東京巣鴨に畑地6950坪を購入と記録されている。その地に東京真宗中学が開校した。明治44年、東京真宗大学が真宗大谷大学と改称し京都の地に戻る3年前、明治41年に真宗東京中学は廃校になった。 明治42年、その跡地を東京養育院が購入。大人からの悪い感化を避けるために、巣鴨分院として開設し児童を収容した。院長の渋沢翁は日本資本主義の神様とも言われ、また教育や社会事業に尽力したが、中でも養育院には終生かかわり、院長を亡くなるまで57年努めた。巣鴨分院には晩年は毎月13日に必ず訪問した。 「気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそくしてこころひろかれ」 巣鴨分院開設から32年後、昭和15年。母校は養育院巣鴨分院の半分の施設を使い開校した。巣鴨分院は同居していたが、老朽化と周辺の繁華街化で42年(昭和17年)練馬区石神井台へ移転した。そのときに名称も東京市石神井学園と改称。石神井学園は、この間、戦中戦後の戦災孤児や浮浪児といわれる子どもたちの収容。48年(昭和23年)児童福祉法の施行に伴い養護施設となり、現在も東京都社会福祉事業団・東京都石神井学園として社会的養護を必要とする子どもたちの最後の砦としての役割を担っている。昨年創立100年周年を迎えた。養育院は日本の福祉の原点と言われ、その巣鴨分院は児童福祉の日本の草分け的存在と言える。園内には渋沢翁の書による「気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそくしてこころひろかれ」の石碑があるが、移転前は巣鴨分院に建立されていた。なお養育院はその後板橋に移り、昨年から東京都健康長寿医療センターとなり、高齢者の健康増進と疾病治療・予防にあたっている。 昭和15年に開校した母校の校舎の源泉は養育院ではなく真宗中学の建物だった。昔の校舎をお寺の講堂のようなと言う先輩が多いが、頷ける。またこの地は歴史的な観点から見れば、人を救うための勉学の地であり、日本の児童福祉の原点といえる知であり、さらにその地に日本の社会福祉の先駆者の渋沢栄一翁がしばしば訪ねていた地であった。母校の校訓「至誠一貫」は孟子の「至誠にして動かざる者いまだこれあらざるなり」によるものだが、「真心(まごころ)をもって一生を生きていく」という意味と言われる。人を救う教えや福祉や渋沢翁の「仁」にも合い通じる部分があり、この地に至誠一貫の歴史の流れを強く感じる次第だ。(箙 紘矢) 。
第三章 至誠一貫の流れ 真宗中学の校舎か、それとも・・・永山先輩からの便り 「紫筍第53号創立70周年記念号楽しくまた懐かしく拝見しました。私は終戦翌年に4年修了で進学した旧制三期生です。 第53号27ページに記事ですが「昭和15年に開校した母校の校舎の源泉は養育院ではなく真宗中学の建物だった」とありますが、講堂として使用されていた建物はその通りですが、教室に使用された建物は26ページの堀弥八郎君の記事のように渋沢栄一翁の尽力で建てられた東京養育院巣鴨分院のものではないかと思います。校舎は昭和17年当時老朽化はしておりましたが、明治27年や32年頃まで古いものとは思えません。「大正ロマンが溢れていた木造校舎」という表現が正に当を得ているような面影でした。現存すれば「文化財建築」でしょう。ただ学生収容人員は500人程度で、三期生入学当時で満杯になり、四期生入学の頃には三期生は5クラスを4クラスに分けて授業し、校舎の新築を期待している間に戦禍に逢い、また勤労動員の日々に明け暮れるようになりました。2010年11月15日 旧制三期生E組 永山 升三」と言うメールを永山さんから頂いた。 1909年東京養育院分院が開設 紫筍53号では、第三東京市立中学校が開設時に使用した校舎の詳細までは、判明しなかった。ただ東京養育院分院の前に、真宗中学があり、それを養育院分院が引き継ぎ、三中に引き継がれた。永山先輩の疑問を解決するには、分院が開設された1909年(明治42年)から、三中開校までの建物の変遷を調べる必要がる。母校にはそんな歴史は保存されてない。東京養育院分院は1942年(昭和17年)に石神井に移り、「石神井学園」として現在も活動している。2年前には「100周年」を祝い、記念誌を刊行したらしい。早速石神井学園に伺いをたて、100年史に戦前の建物の記録があるか尋ねた。答えは、収容している児童の数は把握しているが、戦前の記録は無いとのことだった。 大泉学園に日本社会事業大学があり、そこに日本の福祉関係の資料があることが判る。早速図書館に電話し、尋ねると、「検索すれば、もしかしたら有るかもしれない」と言われる。経緯と質問事項を書きFAXすると、1週間後後に資料が届いた。「東京養育院60年史」、「東京養育院80年史」という資料の中に記録があった。 真宗中学は1899年(明治32年)に現在の西巣鴨の母校の地に畑地6950坪を買い求め、木造瓦葺74坪の二階建て校舎をたて1903年(明治36年)に開校した。しかし真宗大学が京都に戻ることで1908年(明治41年)に廃校した。その校舎は中学留学生を教育する「宏文學院」に貸し付けていたが、1909年(明治42年)東京養育院が買い取り、児童を収容する養育院分院として使用することになった。1909年5月に開所式を行っている。(写真@)
関東大震災で1932年に大改装 1923年(大正12年)9月、M7.9の地震が東京を襲う。死者・行方不明14万2800人にのぼる関東大震災だ。この震災で分院は大きな被害を蒙った。翌年1923年(大正12年)に鉄筋コンクリート作り男子収容所148坪に着工。またこの年に東京ロータリー倶楽部より鉄筋コンクリート作り二階建て100坪の年長女子収容の寮舎兼学校一棟を寄付される。これはロータリーホームと称した。1926年(大正15年)大震災の被害にあった附属学校校舎506坪・講堂等の改修が行われた。また寮舎2階建2棟(階段室共)、同平屋建5棟、事務所1棟、正門1ヶ所など合計21か所の新築工事がなされた。1928年3月に工事が終わり、翌年4月に改築完成披露宴が行われている。渋沢翁がなくなったのは、1931年(昭和6年)なのでこの祝賀会に出席した可能性はある。この改修にあたり、おそらくは東京市だけの予算では十分でなく、自身や各方面に寄付を仰いだのは間違いないだろう。渋沢栄一は数多の役職を歴任したが、養育院院長は1886年(明治9年)東京府より任命以来終身院長を貫いた。 1935年(昭和10年)、東京養育院分院は建物の腐朽及び周辺環境の殷賑のため移転ならびに敷地の分譲を行う決議をし、1938年(昭和13年)ロータリーホームを除いた分院跡敷地並びに建物を第三中学校用として東京市教育局に有償譲渡と記録されている。建物の新築改築記録は1923年(大正12年)頃の1回しかない。と言うことは、その時点で校舎が新築された記録は無い。旧制三期の永山さんや堀さんが使った校舎は、1903年(明治36年)に開校した真宗中学のものだった可能性が高い。塩見鮮一郎著「貧民の帝都」(文春新書)と言う書がある。明治から戦後に賭けての東京の貧民について記載した書だが、その中に東京養育院分院の開所式の写真がある(写真@)。1909年(明治42年)のことだが、少年たちの後ろに、校舎が写る。また、日本社会事業大学図書館のご尽力で、1932年(昭和7年)の建物の図面(資料@)と写真(A)が発見された。 これによれば、校舎は519坪。1926年(大正15年)の改修された附属学校校舎506坪。真宗中学が開校したときの校舎は74坪。当初に比べ、6倍の増築がされていることになるが、その資料はない。 明治の先進的建築様式によるもの 過日四期の静谷名誉会長(B)、高橋明(A)・三田康友(A)・菊地達長(C)に集まっていただき、その写真と図面を見てもらった。1909年(明治42年)東京養育院分院開所式の写真でバックに写る校舎は、四人の先輩が習った校舎だと言う。窓がスライド式に上下するモダン校舎そのものだとのことだ。「ずいぶん古い、おんぼろ校舎だったのですね」と言うと、「古かったが、趣のある、洋風造りの風情のある校舎だった」と反論を頂いた。
そして運動場。運動場の左手に中央児童相談所があった。これは四期先輩方の見立てだが、正確性を帰すために、創立時の教師であった佐々木益男先生に見てもらった。お子さんの佐々木望さんは私と同期で、無理をお願いした。佐々木先生は、現在103歳。耳は少し遠いが、お元気そのものだった。図面の配置は、時間が経つに思い出され、その通りであるとのことだ。ただ、講堂の左手に、炊飯室があったと言う。全員給食で、そこで生徒先生の食事を作り、車で教室に運んだという。その責任者で、見張っていないと最初は養育院分院の児童がまだ同居しており、出来た食事を取ってしまう。各クラスに配給する指揮をしていたそうだ。1932年(昭和7年)の図面にはないが、講堂左手に炊飯所があった。四期先輩によれば、そこの2階は柔道場だったそうだ。二期生で母校の教師も勤められた赤坂正雄先生にFAXし尋ねたが、図面全体の配置はその通りと言うが、炊飯所については記憶がないとのことだった。1943年(昭和18年)から教師として赴任された橘高信先生に見てもらった。先生は翌年6月に出征しているので、やはり定かでない。ただ、全員給食だったので、炊飯所があったことは覚えている。戦後母校に戻り、校舎が焼失した中で、その辺にモルタル作りの建物があったので、それではないかとのことだった。先ずは、古いが趣のある校舎で、三中は開校し、授業が始まった。
42年の歴史的建造物が焼失 1923年(大正12年)の関東大震災は東京に多大な被害を齎したが、その復興を手がけたのが内務大臣兼帝都復興院総裁の後藤新平だった。東京再建に当り世界規模の都市計画で有名だが、教育にも力を注ぎ、東京市立中学校を新たに創設した。第一中学が現九段中高校だが、その時の後藤の考えはイギリスのパブリックスクールを模範とするもので、当時の5年制から7年制にすることを目指した。府立中学や麻布・開成の私立中学が自分たちにも予算をもっと配分すべきとの陳情が出るぐらい、この教育制度に多額の金をつぎ込んだと言う。第一中学は先進的な教育方針を掲げ、さらに第三中学が創設されるときにその精神を受け継いだ川島源治副校長以下優秀な教員が派遣された。 川島初代校長が目指した画期的で日本一の学校を目指す教育は、このような背景があったわけだ。旧校舎を使いつつも開校した年に、東京市臨時予算会議で敷地8212坪の購入と新校舎3100坪の建築が可決された。新校舎は旧校舎の裏側に建築工事にかかったが、戦時中で木材など資材が集まらず、3年後の1943年(昭和18年)の完成には間に合わなかった。その後、1945年(昭和20年)になると、新校舎の土台が防空壕代わりになり、教師および近隣生徒になる「特設防護団」が結成され、空襲に備えた。当時の様子を三田さんは「何十畳かと思うような編成された米軍B29爆撃機が上空に現れ、東京の中心部にいっせいに爆弾を落としていったのが見えた。日本の防空空軍が上空からそのB29目掛け体当たり攻撃をする。成功は少なかったが、それを防空壕の外から見た」と言う。1945年(昭和20年)3月4日の連合軍の東京大空襲で校舎一部を失い、続く4月14日の大空襲で全焼。真宗中学以来の明治の建物は、灰燼に帰し、42年の歴史を閉じた。 偉人たちの教えが紐づく 東京養育院が出来た経緯は53号に詳しく記載したが、そのときの資金は「江戸七分金」と言われるもので、江戸幕府が所持していたものだ。これは江戸時代、1789年からの松平定信の寛政の改革で出来た制度で、その積立金が明治政府に引き継がれた。1872年(明治5年)東京養育院が出来たときにその積立金が使われた。1876年(明治9年)以来渋沢栄一は亡くなるまで院長を続けたが、松平定信を信奉し、祥月命日である5月13日には飛鳥山の自宅から巣鴨の東京養育院分院を尋ね、児童たちに講和を聞かせたということだ。この点から考えると、多少こじつけになるかもしれないが、西巣鴨の地には江戸時代の仏教や松平定信、渋沢栄一、後藤新平の教えが紐づいていると言える。
校舎焼失後は年譜どおり、流転の時代になる。再び西巣鴨の土地に全生徒が一同に会し授業を始めたのは1952年(昭和28年)のことになる。今の校舎は三代目で1992年(平成4年)に完成したもので、奇しくも創立50周年の年であった。(箙 紘矢、11期D、紫筍編集長)
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