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東京都立文京高等学校同窓会

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TOP70周年記念 文京小史>第三期 創設の地へ復帰期

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写  真  集

校舎の系譜

校 舎 年 譜
第三期 創設の地へ復帰期(昭和28年〜41年)

モデルスクールと新校舎
落成記念式典(昭和28年)
仮住まいの元町小学校時代も、体育や体育祭では創設の地を使用していた。しかし豊島区より新制中学校設立のために土地の使用申し入れがあり、一部を提供し大塚中学校が建設された。文京区での新校舎を断念したこともあり、創設の地での建設は急務となった。昭和26年、奥田校長の尽力等で鉄筋コンクリート四階建ての校舎建設が決定し工事が始まった。昭和27年7月から新校舎で3年生のみが授業を開始。12月に二期工事が竣工。全生徒がここで授業を受けるようになった。昭和28年7月に第三期工事が終了し、PTAの資金による図書館も完成。10月に新校舎落成記念式典を体育館で盛大に行った。それは校舎焼失後8年余にわたる流浪の旅の終了を意味した。
新校舎は戦後初の文部省による高等学校モデル校として建設され、サンルーム兼テラスのベランダを持つ明るい開放的な教室で、文京生の気質にも大いに影響を与えたとも言われる。当時としては、珍しいサーキュレーターによるガス暖房、波状壁・防音二重窓・吸音材使用の音楽教室、アトリエ風北側採光の美術室、ステンレス調理台・ユニットキッチンの調理室、大型生活ロッカーなど、当時としては目を見張る先進的な設備が整っていた。なお大塚中学校は昭和34年8月移転し、本校が本来の全敷地を使用することになった。

◎同窓会ダンスパーティ(昭和31年〜)
戦後は若い男女の間でダンスパーティが流行した。同窓会でも昭和31年の総会のあとに母校講堂でダンスパーティを開き大盛況だった。昭和34年からは朝岡武男さん(3期D)たちの協力により同窓会主催の「ダンス講習会」が毎年開催され、毎回70名を越える同窓生が参加した。昭和43年には同窓会ダンス部も結成され虎ノ門三会堂ビルでのダンスパーティでは顧問の中屋澄子先生のデモンストレーションもあり盛会だった。平成に入ると若者の間でダンスは人気を失い同窓会によるダンス講習会、パーティも終了した。また在校生も昭和30年代、校舎の屋上で昼休みにフォークダンスが行われ、男女共学の微笑ましい見本として近隣住民からも見られていた。

◎紫筍の誕生(昭和32年12月)
昭和31年にタブロイド版4ページの「同窓会報」が創刊された。翌32年から雑誌A5版での発行となった。他校同窓会報はほとんどが雑誌スタイルで、第2号編集長の菊池達長さん(四期C)の発案で当時人気のリーダース・ダイジェストと同じサイズを採用。誌名も「紫筍」に決まった。紫筍はスクールカラーの紫色と若竹のようにすくすくとあらゆる障害を突き破って躍進するようにと造語した。当初は「同窓会報」が正式タイトルで、年度ごとに愛称をつける予定だったが、以後現在まで続いている。当初は同窓会の財政事情は厳しく、八洲印刷社長川上光男さん(一期B)に多大なご尽力を頂き発行した。それから現在まで頁の多少はあったが、途絶えることなく発行され、母校、恩師、同窓生の絆の役割を果たしている。平成19年には第50号記念誌を発行した。

◎同窓会館設立への動き(昭和40年〜平成12年)
6代会長渡辺剛彰さん(一期A、昭和38年〜平成4年)の下で昭和40年「同窓会館設立委員会」が設けられた。同窓会館があればクラス会、サークルOB会などの交流が図られ、資料備品の整備もできると期待された。しかし土地高騰の時代でその手当ては難しく、学校敷地内に同窓会資金で建物を立て、東京都に寄贈する方法を策定。その建設費は当時1千万円と見積もられた。昭和44年から毎年建設基金として一定額の積み立てを開始。30年間積み立てたが、建築費は当初予算を大幅に上回り、また積み立ても建設費に見合うには難しく、平成12年に断念した。
 
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