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東京都立文京高等学校同窓会

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海外からの便り

 タイからのレポート  ロンボク島より  ニューヨーク便り
 アメリカより  中国・上海より   「パミール高原の国タジキスタンから」
 フランス モンペリエからのお便り  中国、大連からのお便り  別世界メキシコ
   リクエストがあった国(世界地図)(PDF)
 
 タイからのレポート 
 タイ駐在中の20期3H組卒業の吉野英利です。タイからのレポートを送ります。
62歳になってからタイに駐在するということで、多少不安もありましたが、2012年2月
16日から駐在スタートしてから、6ヶ月があっという間に過ぎてしまいました。
仕事は自動車電装品のサービスと修理方法を、豪亜・中近東地域のデンソーの現地法人の社員に教育するというネットワーク作りと、実際に、集めて教育するという仕事とそのマネージメントしています。それでは、タイとタイでの生活を紹介をします。
1. タイは、面積が51万km2で日本の1.4倍、人口が約6.6千万人で、「微笑みの国」と言われているように、殆どの人が信仰心の強い仏教徒で、その仏教信仰の頂点に存在するのが国王です。国王の地位と資格は、仏教思想によって前世からの慈悲と善行の恩恵と受け取られ、最高道徳の体現者として国民から敬愛されています。映画館でも、上映前に起立して国王を讃える言葉を聞きます。
次には、僧侶に対して、最大級の尊敬を表します。多少のデモはありますが、殺人や、強盗は少なく、アジアでは最も平和で豊かな国です。でも、貧富の差は大きく、階級社会(僧侶、医者、役人は上位に位置し、金持ちも上位)でもあります。それでも、大きな問題にならないのは、自然の恵み(中央部にはチャオプラヤー川が形成したチャオプラヤー・デルタと呼ばれる豊かな平地が広がり、世界有数の稲作地帯を作り出している。)が豊で飢えるということはなく、信仰心が厚いからです。
老若男女、金持ちも貧乏人もお寺に良くお参りをし、お坊さんを敬い、自分が貧乏でも前世の行いの結果ととらえ、明るく暮らしています。何事にも感謝の気持ちで、合掌して、笑ってサワデイカップ(ありがとう)とお礼をする心優しい国民です。
 (Grand Place:王宮跡)   (タイは南北に長い国です。)
   
 
2. タイは自然が美しく豊な国で、世界中からの観光客が集まってきます。一方では、自動車産業を核として、著しい経済発展を遂げアジア地域の発展を牽引するとともに、その首都であるバンコクは近代都市として変貌してきています
 (バンコクの中央部の写真です。)
   
2009年の世帯当たりの平均所得は月2万903バーツ。一人当たりの平均所得は月6319バーツ(17700円)です。
日本はタイにとって最大の貿易額と投資額、援助額を持ち、日産自動車ホンダトヨタいすゞなどの自動車関連企業の多くが進出している他、空調メーカーであるダイキンといった家電メーカーなども多く進出し、国内市場への供給を行っている他、関税特典があるASEAN諸国内への輸出拠点として活用しています。
私の住んでいる地区は、スクンビット地区で、日本人も多く住んでいて、金持ちの家も多くあり、レストランやショッピングセンター、繁華街があります。
日本人駐在員は、コンドミィニアムやサービスアパートメントに住んでいて、恵まれた環境です。日本、タイ、中華のレストランも多く、日本スーパもあり、単身赴任でも困ることはあまりありません。スクインビット47にある我が家(サービスアパート)と近辺の写真です。
(Wine Connection、日本レストラン) (アパート屋上よりの写真、BTSが走っている)
 (Wine Connection、日本レストラン)  (アパート屋上よりの写真、BTSが走っている)
(アパートの写真) (近所のフジスーパー)
   
3. タイの自然・環境をみてみると、タイ中央部には、美しい田園地帯があり、南には、美しい海辺のリゾート地があり、マリンスポーツにも最適です。家族で、プーケット島にも旅行しましたが、美しい海でマリーンスポーツが楽しめます。
リゾートホテルも設備が整っていて、お洒落でした。 
 (オーケットバトンビーチ)   (プーケットマリオットホテル) 
でも、やっぱりタイでの観光名所は、寺院、王宮で、バンコク市内のチャオプラヤー川の東側に集まっています。一度はみてみなといけないですね。
(ワットポー 涅槃寺)  (ワット・プラケオ ? エメラルド寺院)  (ワット・アルン - 暁の寺)
後、水上マーケットや民族ショーや象の芸のあるローズガーデンも見所です。
それ以外にハーフショーあり、ナイトクルーズありで、世界中から観光客が集まってきます。
タイにきた当初は、お客さんが来るごとに一緒に観光を楽しめました。
 (水上マーケット)   (ローズガーデンの象) (チャトチャック ウイークエンドマーケット) 
       
(民族ショー後のショット)
観光以外では、タイでは結構ショッピングも楽しめます。 ウィークエンドマーケットやナイトバザールなどでは、現地の廉価な衣類やお土産も買え、美味しいタイ料理も楽しめます。まだ、チェンマイには行っていませんが、もう少ししたら旅行にいこうと思います。
後半は、観光案内のようになってしまいました。仕事で行ったドバイ、ニューデリー、ジャカルタ、マレーシアの写真も載せたかったのですが、タイの案内だけにしました。
タイは、観光にも素敵な国なので、皆さまぜひ遊びにきて下さい。 
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  私の海外体験談 海外リタイアメント・ライフ
 昭和43年に我が文京高校を卒業し、1年浪人の後、大学に進学し、昭和48年に社会人となりサラリーマン生活37年間を勤めあげ、平成22年3月に定年退職。 平成22年4月からフリーとなり、主にインドネシアやニュージーランドへ長期滞在をベースに、海外ロングステイへの取り組みを始めました。

社会人の時代は一部外資系企業でもあった関係で米国や中国への出張もあり、また会社の連休を利用して10日間以内の海外旅行等はして来ましたが、老後は海外で長期滞在をし、現地の人達と交流し、残った人生を豊かに過ごすことが一つの目標でした。
そのためには自分自ら能動的に動き、滞在したい国や都市へのアプローチが必要なのですが、既に当方には定年退職時にいくつかの海外生活環境が存在していました。 
その国がインドネシアとニュージーランドです。 

インドネシアは、家内の父がインドネシアで某日本企業の駐在員をしていたことがあり、定年後、日本のバブル期に日本に持っていた自分の資産を売却し、準備期間もありましたがインドネシア・バリ島の東隣りのロンボク島の北西にあるギリ3島の中の小島ギリ・メノにカサブランカというコテージを作り、1993年に開業し、2009年には義父も亡くなってしまいましたが、現在も継続営業しています。
カサブランカ・コテージHP: http://www.h2.dion.ne.jp/~gilimeno/

ロンボク島は未開発の所が多く、自然がいっぱいの素朴な島で、産業といえば農業と漁業、観光業程度で、排煙や廃液を出すような工場も殆どなく、晴れれば綺麗な青空が広がり、夜はプラネタリュームの様な星空になります。 よって海は非常に綺麗で、殆どの場所はエメラルド・グリーンの透き通った海が広がっています。 特にギリ3島周辺は透き通った海が広がっており、魚たちも保護されており、ダイビングやシュノーケリング・スポットにもなっています。
海のレジャーが好きな方々には、一度訪問されればそのたまらない魅力の虜にされるかと思います。

ロンボク島は海のリゾートとして、このギリ3島周辺開発から始まりましたが、最近では他の場所にも少しずつ海のリゾートが開発され、カサブランカは開業から10年近くは結構繁盛していたのですが、ここ10年程度は採算が合わず維持が大変な状況で、来年20周年となるのですが、営業継続出来るかの経営判断をしなければいけない環境ともなっています。 
当方もロンボク滞在時はこのコテージを利用しますが、別にロンボク本島西海岸沿いに自宅を持っており、ロンボクへ行った時は基本的にここで長期滞在をしています。 
最近は年に2,3回約1ヶ月単位で滞在している現状です。
またロンボク島には国際線が直接就航してませんので、経由地バリ島でも少し長く滞在したりしています。 インドネシアではロンボクやバリも含めて、海のリゾート・ライフを楽しんでいます。

ロンボクの人達は、日常の生活をするのがやっとの人達が多く、情報量も少ないため、日本についての知識は殆どありませんが、流石に2011年3月の日本の地震や津波の怖さは知っていて、ロンボクも海に囲まれているので津波は非常に心配されていますが、ただ来ないことを祈るばかりでした。
また少し裕福な人達は、日本の車やバイクを欲しがっており、非常に購入意欲を持っておられる様子です。
特に車については、道路事情(未舗装、雨季の時の水没等)もあまり良くないこともあり、車高の高いスポーツ・タイプやバン・タイプの車の人気が高い様です。

既に当方は定年退職者でもあり、常に極力エコノミー・ライフを追求していますので、海外ロングステイをエコノミーで過ごしたい方には幾つかのアドバイスを差し上げることは可能です。

またニュージーランドですが、きっかけは娘の短大時代のホーム・ステイから始まりました。
場所は南島クライストチャーチです。 娘はホーム・ステイが終わった後も日本にクライストチャーチの人を迎えいれたりし、当方も含めて結構交流していましたが、娘は2009年6月からワーキング・ホリディのビザを取得し、クライストチャーチに住むようになり、現在はあるプレ・スクールで先生をしています。
そんなこともあり、娘は2010年9月、2011年2月、2011年6月にクライストチャーチで発生した大きな地震を体験しました。
当方も地震前の2010年2月、地震後の2011年9月〜11月中旬、2012年3月〜4月中旬の3回クライストチャーチを中心に滞在して来ましたが、クライストチャーチの街の中心部は地震の影響が残り、未だ閉じられたままです。
当方はクライストチャーチでの宿泊は安いホリディ・ハウスを利用し、基本的にはスーパーで買い物をし、自炊し、車は基本的にレンタルし、現地の人達と交流し、また日本とは比べ物にならない位安い費用で出来るゴルフを何度も楽しませていただきました。
ゴルフは当方だけで楽しんでいては申し訳ないので、近々にニュージーランド・ゴルフ・ロングステイの計画も希望者を募って立てようと思っています。
また毎週金曜日夜、娘の関係もあり、誰でもフリー参加出来るクライストチャーチのウクレレ・グループが集うニュー・ブライトン地域で行っているウクレレ・ナイトにも参加していただければ楽しい週末を過ごせるかと思います。
また、道路事情が非常に良いニュージーランドでしたので、南島の4分の3程度は車で観光させていただきました。 一般的にニュージーランドは治安が非常に良く、日本以上に安全な国であると思います。

ニュージーランドの人達の生活水準は、日本と同等以上の方々も多く、日本への観光等の興味を持っておられる人も多く、話して見ると何度も日本を訪問したり、当方よりよっぽど日本の観光地等を良く知っていて、本当にびっくりさせられます。  
‘灯台もと暗し’と言う諺はもっともであると感ずる次第です。
当方がニュージーランド南島の観光地を沢山訪問していることは、ニュージーランド人にとっては逆かもしれませんね。

ニュージーランドでの生活は、インドネシアよりは経済的に少し負担が増えると思いますが、ニュージーランドでのロングステイはお薦めです。
こちらもご希望があれば当方からアドバイスを差し上げます。

さて当方定年退職してまだ2年少しですが、今の段階は他の国も含めて海外ロングステイを継続していく予定です。 また日本が住みにくくなれば、日本の個人資産の処置や退職者ビザ取得も含めて、海外移住も視野に入れていきたいと考えています。

一般論ですが基本的には海外ロングステイをするためには、行き先に日本人の知り合いがいればこの方を頼ったり、現地の方であれば受け入れをサポートしてくれる協力者が必要です。勿論この方々が信頼出来ることが必要です。
もしも頼れるホスト・ファミリー等がいなければ、ある程度の規模の都市であれば現地日本人会等もあり、この組織を頼って行くのも一つの方法です。
勿論自分一人で海外の新しい地を開拓していける技量のある方であれば、これに越したことはありません。
団塊の世代、定年後日本だけで過ごしていないで、皆様も更なる海外見聞も広めていただきたいと思っています。 当方がその一助になれれば幸いです。

ここから少し宣伝をさせていただきます。
当方定年退職後、現在NPO法人リタイアメント情報センターで少し活動をしています。
ホームページ: http://retire-info.org/
りらいぶジャーナル: http://retirement.jp/
この中でもロングステイ等の海外リタイアメント・ライフについて取り組んでいますので、ご興味のある方は一報願いたく。
 20期H組 島村 晴雄
   
ロンボク島北西にあるギリ3島左からギリ・トラワンガン、ギリ・メノ、ギリ・アイル、その右はロンボク本島  ギリ・メノにある
カサブランカ・コテージ 
海が透明なギリ・メノの海 
 ロンボク本島にある筆者自宅の
テラスからの夕日を眺める
 ロンボクのゴルフ場でのスナップ キャディを挟んで中央が筆者  
ニュージーランドでの
ゴルフ・プレー風景
アカロア近くの娘友人の
牧場でのスナップ
北島訪問時、モーテルでの夕食 風景。簡単できたが勿論自炊です。 ニュージーランドはワインが美味い
チャンスがあってホーム・シッティングを させていただいた家の庭先での ラマちゃん達とのスナップ ニューブライトンでの ウクレレ・イベントでのスナップ
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ニューヨーク便り
ニューヨーク便り
1978年9月に初めてニューヨークを訪れました。日本での仕事は一時休職にし、3〜6ヶ月の予定で訪れたこの街は、私の好奇心を十分過ぎる程満たしてくれました。結局8ヶ月の滞在を終え3ヶ月のヨーロッパでの道草をした後、日本へ帰国。その時点で再びニューヨークを訪れる事を決めていました。
1980年2月、二度目にニューヨークを訪れた時は、「面白そうな街だから2〜3年暮らして日本へ帰ろう」と気軽なものでした。世界中の色々な国から来た人達の中での生活はいつも緊張感を強いられ、それは私にとって嫌なものではありませんでした。幸い仕事もすぐ見つかり、ニューヨークでの生活が始まり、1年、2年、、、5年と飛ぶように時が過ぎ、フッとした時もう10年間が過ぎていました。
ビートルズ世代の私にとっての憧れの外国はイギリスでありロンドンでした。将来何処か外国に住んでみたいという夢を持っていましたが、1975年夏にホームステイプログラムで訪れたロンドンには、もし私が住みたいのであれば援助を惜しまないという知り合いが居たにも拘らず、住みたいとは思いませんでした。しかしニューヨークはそんな私の十代からの夢を実現させてくれる街だったのです。以来今年2010年の今、30年間のニューヨーク生活になった訳です。日本にいた時からの美容師の仕事を引き続き続け、自分のサロンを持ち2001年9月11日のテロの後の苦難も何とか乗り越え、先のリーマンズショックで息も絶え絶えになりながら何とか生きている、、、という現実でしょうか。

「生き馬の目を射抜く」と言われるニューヨーク。9・11の後はニューヨーク、アメリカと言わず世界中の状況が変わったと言えると思います。その上、人々を苦しめる天災、戦争、、、。格差はどんどん大きくなり、ニューヨークも中流が姿を消しつつある様な気がします。あるアメリカ人夫妻。夫婦共ドクターですが、生活の質を変えています。気楽に行っていた長期の休暇は殆んど取らなくなり、外食の回数も控え気味に、と言う風に。しかし庶民の生活はそれなりに保護されている実感はあります。いつもどこかでやっている無料コンサート、イヴェント、パフォーマンス、、、。いろいろな言語の本は市の図書館に揃っており、地下鉄はつい最近25セント値上がりになり皆で、「高くなった、高くなった」と不満を言っている、、でも何駅乗っても、乗り換えても2ドル25セント、、。そうそう、バスから地下鉄、地下鉄からバス、バスから路線の違うバス、、。2時間以内に使えば2ドル25セント。リクリエーションセンターという、所謂ジムですが、我が家から100メートルの所にあり一番近いプールなので会員になっていますが、なんと年間会費は55歳以下75ドル、55歳以上は10ドルです。私にとっては今まで三っ目のクラブですが、20年前は年間1600ドル、子供が出来てからは子供も行けるYMCAは年600ドル、そして今、ニューヨーク市のジムは年10ドル。そして今の市のプールがベストのプールです。

ニューヨーク市はここ1〜2年の間に、市内に自転車レーンをどんどん増設しています。自転車の使用を奨励しています。「自転車乗り安全月間」の時等、ヘルメットを無料で配っていました。実は私は健康と、利便性とエコの為、、一番大きな理由は自転車が大好きなため、、自転車を乗り回しています。マンハッタン島は西はハドソン川、東はイースト川に挟まれています、私は西ハドソン川のすぐ近くに住んでおり、ハドソン川に沿ってダウンタウンからアップタウンまで歩行者、ジョッガー、そして自転車だけのためのレーンがあり、マンハッタンは一部を除いて碁盤の目の様に区画されている為、その自転車レーンを川を見ながら移動をし、目的地に一番近い道をクロスタウンすると、簡単に目的地に着いてしまうという訳でして、、本当に便利です。私は市から頂いた赤地に黒の格子縞のヘルメットをかぶり、ワイルドで有名なタクシーを恐れつつ、タラタラと自転車に乗っていると、「ヘイ!ママ」とか声をかけられたり、坂道をフウフウしながら自転車をこいでいると、横をすいすいと通り抜けて行く黒人の若者が「ユウキャン ドゥ イットゥ!」などと声をかけられ、、、「私ってやっぱり、アトラクタィブなエイジアンウーマンなんだわ、、、」と思っていたら、20歳の我が娘が「ママ、オバーちゃんだからだよ!」と、のたまいました。
ハブ ア ナイス デイ!!
 17期D組 宮崎 澄子
アメリカより
いつも連絡ありがとうございます。高校を卒業して何十年も経ちますので、ご無沙汰しています。

高校卒業後明治大学と大学院の法学部を卒業後、アメリカに来て縁あってアメリカ人と結婚し、子供2人がいます。日本で16年教師をしてからアメリカに帰り、このNJで高校と大学で18年教師をして、去年 高校を引退しました。

現在は、大学で日本史、現代日本を教えています。孫も5人いて、少しおばあちゃんの年代ですが,気分は若いつもりです。でも孫の成長も楽しみです。

時間的に余裕が出来ましたので、本来、私が関心を持っているアジア、特に極東における外交政策の研究をしたいと思っています。

アメリカ社会は、本人がやる気があれば、厳しいですが道は開けます。意外と資格社会ですので外国人にとっては勉強して何らかの資格を取ることを薦めます。

NJは海、山、川があってとてもきれいです。私の家からマンハッタンまでバスで30分なので、とても便利です。世界一流の美術館、ブロードウエイ、音楽会などがあり知的満足をかなえてくれます。私は今まで出来なかったことをこれから沢山したいと思っています。今は庭仕事を楽しんでいます。アジサイ、つつじ、あやめ、ボタン、れんぎょなどが咲きました。今年は梅の実が沢山なり梅酒を造りました。またワイン作りに挑戦したいです。近況報告です。 
12期F組 ベイカン文子
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中国・上海より
2001年の2月末に、大学卒業後一筋に仕事をしてきた会社が民事再生となり、また、一から人生やり直しを覚悟し、再建に取り掛かりました。その経過の中、中国・上海の企業集団が、我が会社に資本参加を申し出て、その方向に話が進み、上海に営業所が出来ました。そこの指導と、中国国内の引き合い業務のサポートに、2004年7月に最初に上海の土を踏み、その後2年間は、毎月1/2は、上海での生活となりました。その後、駐在となり、現在に至ります。

中国語は、NHKのラジオ講座で一年間、基本の勉強をしたのみでありますが、年のせいか、単語がなかなか頭に残らず、一度覚えても、翌日には忘れてしまうという状態であり、やはり、言葉は毎日使わないと、なかなか覚えないものです。それでも、今年で4年ともなると、一応、度胸が付き、中国どこでも違和感無く訪れ、現地の名物料理を何でも食べ、飲み、中国人と日中友好をはかっています。

中国は広く、各地方で、料理は味付けもまったく違い、スリルが有り面白いです。素材も、蛙、田螺、ザリガニ、鯰、鹿、ロバ、熊、犬、鳩、何でも料理になります。上海には、勿論、高級日本料理、フランス料理、イタリア料理と日本の東京と同じレストランがたくさん有ります。でも、私は、中国の各地の特徴ある料理の方が、楽しいです。

上海の街は、現在、万博が近づいているため、古い町並みを壊し、高層ビルを建設していますが、下町の方にはまだ、中国の風情が感じられる町並みが少し残っています。私は、その中国人が住んでいる下町に、一人、マンション生活をしています。
長い間こちらで生活をし、中国人と一緒に仕事をしていると、国民性の違いで、理解出来ない事、なるほどと感心させられる事、など日本と違う事がたくさん有ります。
     
遠くに、高層マンションが並ぶ周辺に残っている下町 上海といえば、必ずこの景色が有名です。
現在、右から二番目のビルは、日本の森ビルが建設中で、その高さは左の明珠塔も抜き、上海一になりました。
もう一つの観光地である、「豫園」の春節(旧正月)飾りがされた様子です。
 このように、上海は、昔の中国と、近代的建物が混在した不思議な街で、上海人は、中国で一番進んだ街と自慢しています。
 皆さんも、機会が有りましたら、是非訪れてみてください。
 次回は、中国の地方の様子をお知らせします。
 20期H組 横山徳衛
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「パミール高原の国タジキスタンから」
中央アジアのタジキスタンがどこにあるかご存知でしょうか?
東は中国、北はキルギス、南にアフガニスタン、西にウズベキスタンに囲まれた国です。
パミール高原が国の7割を占め、北海道と東北6県合わせた面積の小国です。
その名の通り、タジク人が大半を占めますが、ウズベキ、ロシア、キルギスなどの民族が住む多民族国家です。
言葉はタジク語、ロシア語です。
この地域は、歴史的にはシルクロードの交易中継地として栄えたところですが、幾つかの民族に侵略を受け、20世紀初頭にソ連邦に併合されました。
ソ連の崩壊により、1991年に独立しましたが、内戦が勃発し96年まで混乱していたことや資源が少ないこともあって、非常に貧しい国です。
旧ソ連の分断政策の影響が深刻で、この国も隣国ウズベキスタンと不仲です。
ウズベキスタンの首都タシュケントは、日本やバンコクなどと直行便で結ばれ便利です。
この国の首都ドシャンベからは一旦日本とは反対方向のモスクワやイスタンブールに5時間も飛んでから、日本に帰ります。
本来なら、ドゥシャンベからタシュケントまで飛べば、1時間程度で着くのですが、不仲が原因なのかその便はありません。
尤も、この国の飛行機は危険とのことで、我々は利用してはいけないことになっていますが。

今年の冬は、40年ぶりの寒さということもあって、首都ドゥシャンベでも水道は凍り、停電も頻繁におきました。
郡部は、もともと一日数時間しか給電されないので、それほど大きな影響はなかったかも知れません。
寒さで、死者も出たようですが・・・・
今は、もう春の陽気で、日中はかなり暖かです。
夏は40度以上なりますが、5月から11月までは全く雨は降らず、極端に乾燥しているのでそれ程度苦痛ではありません。

私はこの国で、昨年8月から農業分野の日本の支援計画を作る仕事をしています。
文京高校から北大に入り、高校では生物部(陸上部にも居ました)で植物が好きだったこともあって、紆余曲折の末、農学部に進みました。
第二次オイルショックの時代で、東京には適当な職がなく札幌に残り、北海道の農業団体に30年間勤めました。
5年前にひょんなことからフィリピン農業省のJICA派遣専門家を頼まれ、早期退職することになってしまいました。
フィリピンから帰り、ウズベキスタンとタジキスタンの農業調査などの短期の派遣専門家や農協のアルバイトなどをした後、今の仕事をしています。

この国の国民の6割は農業をしていますが、ソ連の集団農場で長い間働いてたこともあって、日本のように個人農家が自ら生計を立てることに慣れていません。
旧ソ連時代は学校や病院、バスなどは無料でしたが、今は現金収入がないと暮らせませんから大変です。
1日1ドル以下の生活で、パンとお茶で食事をすませる農家もいるようです。
乾燥地域ですので、パミール高原からの水を使った灌漑農業で、綿花や果樹(ザクロ、ブドウ、リンゴ、レモン、アンズ・・)、野菜、水稲などを作っています。
農家は例外なく牛や羊、ヤギなどを飼っていて、ほぼ食料は自給が出来るし、糞は燃料や肥料として使います。
今の日本の農業から考えると、ある意味で理想的な部分もあります。
一方、識字率96%と学校教育は一応整っていますが、教室はぼろぼろで教科書以外は何もないところが大半です。

手付かずの自然がまだ沢山残っていますから、何年後かには日本からの観光客が沢山くることを期待しています。
この機会に是非、タジキスタンというパミール高原の小国があることを話の種にして頂ければ幸いです。
早春の自然草地 秋のザラフシャンの山々 ザラフシャン峠から
ロバで昼食を運ぶ少年 オペラ劇場.jpg 雪のなかで遊ぶ子供.jpg
20期3H 中村 正士  
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フランス モンペリエからのお便り  
いやあー、インターネットって凄いですね。今朝何の気なしに都立文京高校で検索したら、此のサイトにぶつかりました。日本を離れて三十余年、学校時代の友達とも殆ど疎遠になり、同窓生で未だ行き来のある人の数は片手の指で数えられ位でしかありません。高校での三年間は、我が人生花の時でした。時々様子を知りたいと思いますので、住所変更届けをします。ニュース配信宜しくお願い致します。

ちなみに私は筝曲部の創立発起人で、あれから四十四年、未だクラブは健在でしょうか。

モンペリエの様子を写した写真を二枚ばかり添付でお送りします。最初の一枚は今朝写したバルコニーのジェラ二ウムで、真冬の最中、花を咲かせてくれています。今冬、毛糸のセーターなど全く不要な薄気味の悪い暖かさが続きまして植物も調子が狂ったのでは無いでしょうか、いつもなら、葉さえ余り残らないのに、蕾までつけましたから。珍しく今朝は雨が降っていて、光線の加減らしく余り色が綺麗に出ませんでしたけれども、実際はもっと鮮やかです。
 

其の次の四枚一組になっている写真は有機栽培の野菜を主に売っている市場の様子です。何の贅沢も許されない田舎の暮らしですが、子供達 (息子が二人います)の健康を守ろうと、此の市場の常連になって二十年数年です。おかげさまで息子は二人ともアレルギーなど何一つ無く、身体だけは丈夫です。三枚目右上の野菜のスタンドが私のご贔屓なんですけれども、此の仏独カップルの息子さん、超エリート校で有名なエコールポリテクニックに入り、目下の所、高級官僚の道をまっしぐららしいです。彼の合格が分かった時、お父さんのフランシスさんが晴れやかな顔で「マダム、いい世の中になりましたねえ、百姓の倅がポリテクニックに入りました。」と私の前でも笑み崩れていました。息子さん、元々頭の良い人なのでしょうが、その時くらい食べるものの質の大切さを理解した事はありませんでした。彼の両親の作る安全な野菜、卵、気を付けて選ぶそのほかの食材がこうした優秀な人材を育成するのに随分貢献しただろうと容易に想像がつきますから。

日本は厳寒の冬と聞いています。未だ寒さが続くかも知れません。くれぐれもご自愛下さい。それでは、又。お元気で! 
  
 
旧市街、「鉄腕」通りと言う面白い名前の道   旧市街の中にあるこの地方の産物を売る店。 モンペリエ旧市街。今でも19世紀の面影が色濃く残っている界隈。 
エスプラナード。夏には木々が涼やかな陰を作る市民たちの憩いの場だ。直ぐ傍にあるファーブル美術館ではクールベ展が開催されている。名作「クールベさん、今日は」は此の美術館の所蔵である。 歴代の功績のあった医学部教授たちの正装肖像画が四方の壁一面にかけられた医学部博士論文審査用の特別室。相当な威圧感だろうと此処で審査を受ける学生が気の毒になった。博士号取得者の中には勿論我らが同胞日本人もいる。
通称「凱旋門」屋上からの市内展望。右の尖塔は聖アンヌ教会のもの。其の左、黒い屋根の建物はジャック ブレルとリノ ヴァンチュラ主演の映画、「L’Emmerdeur」(糞忌々しい奴)の舞台となった。
ローマ時代のものを模した此の町ではアルソーと呼ばれる江戸時代建設の水道橋とその下で毎週二度開かれる有機野菜市場の模様。此の水道橋は今でも使用可能との事。   此の町の中心、コメディ広場。賑わいだけに眼をやらず辺りをよく見るとオスマン様式の建物があったり、なかなか趣のある外観を持った場所である。此処に続くエスプラナードとあわせて「俺たちはヨーロッパで一番大きな広場を持っているのさ」とは土地っ子の言。
 
   17期 D組 田藤玉枝
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紫筍50号 中国、大連便り
今年は『黄金のブタ年』で良い年
  
 オープンカー  耐蝕性 3人乗り 
昭和五十二年(1977年)に文京を卒業し、丁度三十年になります。昭和五十六年に家電メーカーに入社し業務用冷蔵庫等の冷蔵冷凍設備を生産・販売している部門に配属されました。平成十二年に北京で中国語の語学研修終了後、平成十四年に広東省順徳市に一年、翌年四月から中国 大連経済技術開発区の日中合弁会社に出向し日本人責任者として勤務しています。

中国国内でスーパーマーケット、コンビニにおける当社シエアはそれぞれ42%、55%とトップで非常に強い事業になってます。大理日本人に住みやすい環境中国はとてつもなく広く、地域によっても事情が違います。国の法律でも末端まで伝わるのに時間を要し、省・市・区によっても解釈は変わり究極は担当者によっても捉え方が異なります。大連は東北三省(遼寧・吉林・黒龍江)の中で一番の経済発展都市です。人口は五百七十万人。ご存知の方も多いと思いますが市内から一時間程のところに日露戦争停戦の地、旅順があり戦場となった203高地があります。現在でも日本人が立ち入れない場所が沢山あります。司馬遼太郎の『坂の上の申言の舞台になった場所でもあります。このような歴史的な背景があるからか日本語を話せる人材が多く日本企業のコールセンターも沢山あります。日本企業は日本商工会に登録されているだけでも七百社を超え実際には倍以上の企業が進出しています。日本人にとっては非常に住みやすい環境で日本人学校もあり家族帯同の駐在員も多いです。

日本の四倍のスピードで発展中国に五年半住んで感じることは発展のスピードがものすごく早いということです。日本の四倍のスピードで発展しているとも言われています。問題はその発展スピードにインフラが付いていけないことです。最新型のベンツやBMWが走る一方で馬車が荷物を引く姿も見かけます。車の登録台数は大連だけでも三百台/日以上であり道路の整備、交通マナーがついていけない。道路渋滞は慢性化し、交通事故は多発する状況です。これはひとつの例ですが、このギャップをいかに克服できるかが今後の発展のキーポイントになって<ると思います。

『黄金のプタ年』でベビブーム今年は十二支の猪年ですが中国ではブタ年と言います。それも六百年に一度回ってくる『黄金のブタ年』で大変良い年とされています。そのためベビーブームとなっており、この良い年に何とか子供を授かろうという夫婦で一杯です。病院は満室状態で通路にまでベットを置いて対応している有様で、こんな年に生む必要なしと考える人もいます。反日の問題もありますが基本的には中国の人たちは非常に友好的です。言葉が通じなくても困っていることが解ると皆、親切に対応してくれます。いろいろな問題もありますが隣国として中国は重要な国であり政治。経済・文化・教育等多くの面で友好を図るべきと考えています。この駐在をとおし、ごく小さな力ですが日中友好という大きな課題に取り組んでいきたいと思っています。
 (大連三洋冷鍾有限公司、董事 副総経理)
 29期G組 青木光一郎
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紫筍49号  別世界メキシコ
1976年に卒業してから早30年が経ちました。元々は小生の実力では国立大学は厳しく、「授業料の高い下手な私立に入るよりはその授業料で生活費までカバー出来る外国の大学に留学してはどうか」との両親のアドバイスに新らし物好きの小生が二つ返事で賛同した訳です。最初は景色のきれいなカナダは、と漠然と考えていたところ日本に留学していたメキシコ人と知り合い、メキシコはどうだ、となりました。小生は、メキシコと言ってもさっぱり知識もなく「アメリカの下にあるなぁ」くらいに思っていました。しかし「メキシコ国立自治大学」はラテンアメリカで最も由緒ある大学(ハーバードより古い)でレベルも高い。また、英語を話せる日本人は多いがスペイン語を話せる日本人は希少価値だと友人に説得されました。更にメキシコシティーにある彼の実家に間借りさせて貰える、との事で比較的深く考えずにメキシコ留学を決めました。

最初は国立自治大学の外国人学校でスペイン語を習得、その後同大学経済学部を八三年に卒業。その間結婚し、一旦メキシコ人の家内を連れ帰国し、1年半ほど日本で仕事を見付け生活しました。しかし矢張り「日本の風」が合わず、メキシコに戻り、メキシコ住友商事等に勤務し、2001年日本海外貿易コンサル社を設立、現在に至ってます。
この30年間で本当に色々な事があった訳ですが、最近感じるのは、日本人は結構国際的ではないなぁ、と言う事です。歴史を見れば明らかかも知れませんが、長年島国で特に他国からの侵略も受けずにこれまで来たのですから「自分たちの力で国(の独立)を勝ち取った」と言う意識もありません。昔から「日本」と言う「国」があったように感じてしまいます。「国」と言う概念自体確固としたものではなく随分曖昧なものと思います。

ここ数年 Globalizationが日本でも話題になっているようですが、Globalization が進むと否応なく外国人と接する機会が増えます。国際的なセンスのない日本人駐在員などがメキシコ人から「頭は良いみたいだがなんて礼儀を知らんやつだ」と思われる事もあります。
在校生や後輩の方の参考にと思い述べると、皆さんも「常識」を頭から信じないで下さい。日本で言う「常識」は往々にして「日本でしか通用しない常識」です。
そして陳腐な言い方ですが世界に羽ばたいて欲しいと思います。勿論リスクもあります。しかしいずれ「日本は住みやすいし安全だから日本にとどまる」と言う考え方は通用しなくなります。日本も犯罪事件が増え世界の標準に近づきつつある訳です。日本を知る、また日本人を知る為には日本を外から眺める必要もあります。日本や日本人の良い所、悪い所を知って初めて国際的な(外国人と対等に話せる)日本人になる事が出来るのだと考えます。

卒業三十周年に紫筍に小生の稚拙な文章を載せて頂けるとの事で大変光栄に考えますが、メキシコ留学を決めたきっかけや大学時代の苦労などを書けとの事。そうなると連載記事にして頂く必要があるかも知れません。(勿論哲学的な定義はあるでしょうが)。卑近な例を挙げると、日本のインターネットのサイトでメキシコで発行された international credit card を使って買い物をしようとしても出来ません(少なくともこれまで小生が試した限りでは出来ません)。商品の送り先を父の実家にして支払いだけをメキシコの銀行で発行されたカードを使って購入しようとしても出来ないのです。「アメリカのサイトであれば何でも買えるのに、外国人が外国のカードで買い物する事をはなから全く頭にないんだ。」と気付きました。(日本語では「グローバリズム」と言ったりするようですが主義や主張ではなく、ある種の phenomenon ですから、「グローバリゼーション」が正しいと思います)世界中の多くの国で学校は安全な場所でもなければ、横断歩道で歩行者が渡ろうとしても車は止まってくれません。(警官は強盗団よりもっと怖いので前述のタクシー強盗事件も警察には届けませんでした)。

そして、卒業後 三箇月も経たない間にメキシコ留学した事より、今年で在墨 三十年と言う事です。その間、大学卒業後、既に結婚していた小生は試しに(?)事がありますが(あまり重要なファクターとも言えませんね)。
一〜二年に一度くらい年老いた父親を訪れる為に里帰りする程度でもう日本の事が段々判らなくなってしまいました。
28期B組 伊藤亮
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