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TOP同窓会誌「紫筍」取材
駒込から飛鳥山へ(日光御成道コースの一部)
今年は、駒込からゲーテ記念館(飛鳥山)でした。
6月15日(土)10時に駒込駅の本郷通り側の改札口に催事部と紫筍担当の会報部のメンバ−5名が集合しました。大野催事部長、山田副部長、鈴木常任幹事、永山前催事部長、会報部長の梶野の5名です。毎年、恒例の文京高校周辺の散策です。今回は、時間の関係で六義園を外して、古河庭園、北区中央防災センター、ゲーテ記念館が主な立ち寄り地です。
 さて、出発地点の駒込ですが、地名の由来は古く、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に味方の軍勢を見て、「駒込みたり」といったことに由来する説や、一面が林であったところへ駒が集められ、繋がれている様子を日本武尊が見て「駒ごみたり」と言ったことから駒込林と呼ばれるようになったという説などがありかなり古い地名です1)。この本郷通りは相当古い街道筋で、古くは平安時代の初めに坂上田村麻呂が征夷大将軍として奧州平定の帰途に、囚われた蝦夷の長のアテルイを伴い京に護送に利用したかと思われます。2)また、後三年の役で蝦夷の安部氏を討った源義家(八幡太郎)や、遙かに下って太田道灌が戦勝を祈願したと言う豊島区最古の妙義神社3)が駒込駅近くに鎮座しています。神社への参道には栄養学の権威として知られる香川女子栄養大学短期大学部と香川調理専門学校が有ります。皆さんが調理の時に使っている計量カップやスプーンは香川式が標準化したとのこと。知ってました?4)
 さて、話題が前後しましたが、駒込駅前には洋菓子で有名な「ALPS」があり、その先に
和菓子の「千鳥屋」(創業寛永7年(1630))があります。ここの洋風銘菓として知られるのが「チロリアン」ですが上手いネーミングですね。(^_^) 妙義坂を下りきると霜降橋交差点があります。昔は谷戸川が流れていて下流は藍染川となって上野不忍池に注いでいます。今は暗渠のため分かりませんが、地名に手がかりが残っています。因みに水源は染井墓地の下です。5)近くの谷戸交番と言う名前が由来を教えてくれます。そして、この旧谷戸川が付近の豊島区と北区のほぼ区境となっています。
 霜降橋交差点を過ぎて大炊介坂(おおいのすけざか)を登り切ると左手に旧古河庭園があります。都設置の「歴史と文化の散歩道」の銘板によれば、「坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。」6)と有りました。ですから、ドラえもんの「どこでもドア」から過去のページを遡って見れば、日本武尊、坂上田村麻呂、アテルイ、源義家らの軍兵の行進や、徳川家光の御成行列や飛鳥山へ花見に向かう将軍吉宗らの姿を見ることができるのでしょう。また、江戸町人や幕末の志士たちがほろ酔い機嫌で千鳥足で江戸市中に帰る姿を見ることもできるかもしれません。暗闇坂を登り切ると本郷通りを挟んではす向かい滝野川会館、右手に滝野川保健所、滝野川小学校が有ります。ここは、戦前の東京府35区時代7)には滝野川区の区役所が置かれていた場所です。北区は昭和18年に都制が敷かれる前は東京市に属しており、王子区と滝野川区が合併して北区となりましたがかっての区役所跡が滝野川会館の前身であったことを知る人もいまでは少なくなりました。
 旧古河庭園の入場料は大人300円です。毎年5月中旬から6月初旬にかけて春のバラフェスティバルが開かれています。8)特に期間中は観光バスから見学者やカメラを持った人が絶えない都内の名所です。この旧古河庭園の名物は何と言ってもお洒落な洋館とバラ園です。皆さんも写真で見たことがあると思います。この洋館は、明治時代の元勲陸奥宗光の本邸でしたが次男が古河財閥の養子になってから大正6年に建てられました。旧古河庭園は武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。この旧古河邸は鹿鳴館、岩崎弥太郎邸などの設計で著名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル晩年の傑作であり和洋を調和させた邸宅建築の傑作としてその雄姿を今に伝えています。9)バラの写真も撮りましたが、写真映えのする見事なバラと言うのは少ないものです。低地の日本庭園には紫陽花、花菖蒲が咲いていて空気がヒンヤリしていて、池には亀が沢山甲羅を干していてのどかな風景でした。
 私たちは、旧古河庭園を後にして本郷通りを飛鳥山に向かいました。
 その途中、平塚神社参道脇の和菓子屋「平塚亭」に立ち寄りました。ここは、内田康夫の
推理探偵小説の「浅見光彦シリーズ」の舞台です。TVの浅見シリーズでも良く放映されています。「浅見は『平塚亭』に寄って、串団子を甘辛五本ずつ、買った。ここの団子を母親の雪江が好物で、母を籠絡するにはこれに限った。」10) 私達もここの店先の椅子に座り甘味で少し空腹を満たし、水分補給をしてから先を急ぎました。勿論、出来たて、無添加で美味でした。
 次に訪れたのは滝野川消防署の隣にある北区役所 防災センター・地震の科学館です。運良く、地震体験の予約グループに合流できました。体験したのは実際に有った4種類の地震波でした。最初は震度4で立って歩ける状態です。2番目が、震度5強の東日本大震災の時の東京での揺れです。長い横揺れが2分余りも続き、忘れかけていた311をまざまざと思い出しました。3番目が311で震度7を記録した宮城県栗原市の地震波です。ゴーッとして、激しい横揺れと縦揺れが混ざり2分余りも続き、壁やキッチンにしがみついているのがやっとでとても立てませんでした。最後の関東大震災を再現した震度7体験は、想像以上の世界でした。いきなり突き上げられる状態は、まさに直下型地震そのもので、体中が踊っているようでした。皆さん!いざと言うときに備えて、備蓄や避難場所の確認、家族との連絡方法など日頃からやれる準備を致しましょう!
防災センターのある滝野川公園は、かって、国の農業試験場が置かれ、日本の近代農業技術の発祥地でした。移転時の発掘調査の結果、ここには御殿山遺跡と言い、武蔵国の郡衙が置かれておりその建物の一部が、飛鳥山博物館内に復元展示されています。歩みを王子方面に進めると右側に独立行政法人国立印刷局滝野川工場が有ります。ここは、皆さんが毎日顔を合わせている、日本銀行券(特に一万円札)を印刷しているところです。中の売店での土産の人気第一位は「お札サブレ」です。他では手に入りません。続く滝野川警察署の前は国の史跡「西ヶ原一里塚」です。ここは日本橋から二里(8km)旧岩槻街道沿いの両側に2本の榎が立っています。
その先を左に曲がり200mほどゲーテの小径を進むと目的地の「東京ゲーテ記念館」です。ここは火〜土の11〜5時迄開館している実業家・粉川忠(こがわただし)の非営利の私設機関で、入館無料の財団法人です。ゲーテの主要著作が常設展示されています。本日の散策の最後に、彼の名作「ファウスト」より、次の言葉を皆さんに贈ります。「人間は、努力をする限り、迷うものだ。」11)「知恵の最後の結論はこうだ、生活でも自由でも、これに値いするのは、それを日々に獲得してやまぬものだけだ。」12)「時よ止まれ、汝はいかにも美しい!」13) 文責 梶野
脚注 
1)  『御府内備考』の伝承による 文・伊藤 榮洪 公益財団法人としま未来文化財団おもしろ豊島区史 連載第2回 駒込の地名 ? 伝承の面白さ【2012年5月5日発行号】
2)  この岩槻街道沿いにある赤羽神社の銘板には、坂上田村麻呂が蝦夷討伐に際し立ち寄ったとの記述が有り、同じ岩槻街道の本郷通りを京へ上ったと推測される。
3) 「新編武蔵風土記稿」による妙義神社の由緒 妙義神社銘板による。猫の足跡、巣鴨の散歩道、古今宗教研究所等のHPをクロスチェックした。太田道灌の記述は妙義神社に、源義家の記述は平塚神社にと旧岩槻街道沿いの神社に散在している。ここでは、学術論文ではないので記述の流れを考慮して故事をひとまとめにするなど正確性を多少犠牲にしていることをお断りしておく。
学校法人香川栄養学園ホームページ 「沿革」より
5) 江戸・明治・東京重ね地図 中川恵司編 株式会社エーピーピーカンパニー発行
6) 「歴史と文化の散歩道」平成6年刊 東京都 この冊子に記載されたコースに沿って、各地点に銘板が設置され、歴史的由来を教えてくれている。
7) 東京都公文書館ホームページ 大東京35区物語より
8) 東京都ホームページ 建設局 (公財)東京都公園協会 平成25年21日発表
 9) 旧古河庭園の栞より
10) 内田康夫著『平家伝説殺人事件』より
 (主人公の浅見光彦は西ヶ原3丁目68-10(実在しない番地)の出身・在住という設定)
11) ゲーテ 「ファウスト」第1部より 訳本は各種有り、訳文も微妙に異なります。
12) ゲーテ 「ファウスト」第2部より 〃
13) ゲーテ 「ファウスト」第2部より 〃
大野環インタビュー 
 紫筍55号 直撃インタビュー 43期大野環インタビュー 編集 梶野茂男 24.6.3.
池袋東口 椿屋珈琲店  聞き手 19期安達由美子、19期梶野茂男、41期山田泰斗、

・東宝ミュージカル“ゾロ”(日本初演)にジプシー&農民役で出演する。
 そのオーディション合格後(日本人でフラメンコダンサーと言う枠で1人だけ合格する)、
「オーディションでは最後に何か歌えと言われたのでカンテ(フラメンコの歌)を歌いました。歌っている途中でスペイン語の歌詞がわからなくなった(笑い)ので、「終わったな」と思ったら、翌日「合格です!」と言う連絡がきました。演出家のクリスが地声が好きで作った声でなくて地声で歌ったのが良かったみたいです。オーディション合格後、スペイン人の、踊り手が5人、ギタリストが1人来日して2010年12月初めから本稽古と振付に入りました。私は、練習では完全にスペイン人の踊り手と一緒に稽古と振付の練習をしていました。男性陣は兵士役も有ったので女性陣と分かれてフェンシングを専門の振付師の指導で練習し、女性陣はフラメンコの振付けた踊りの練習を約40日程しました。」
 安達「一番辛かったのは何だったと思いますか?」
「“ゾロ”の練習中に、辛かったのは、膨大な量の振付を覚えることでした。」
本番は、翌2011年に日生劇場(1/13〜2/28)、名古屋中日劇場(3/5〜3/20)、大阪梅田劇場メインホール(3/24〜3/28)と約2か月半、3か所の公演で活躍しました。
「特に、一番苦しかったのは、歌いながらフラメンコのステップを踏むこと、リベルタードのナンバーで椅子で床をガンガン打ち鳴らしながら歌うことでした(足のステップに集中するのがフラメンコなのに、そこで歌うのですから)。振付したフラメンコダンサーのアマルゴは「これはミュージカルだから仕方ないんだ」と言っていたけど。」(笑い)「彼は、このリベルタードと言うナンバーが一番の見せ場だからと言って」(笑い)・・・「あと辛かったのは、(アンサンブルの人数が18人と少なかったため、一人が何役も早替わりをするため)休む時間がなくて、ジプシーと農民に2幕目などは7回位着替えたり、客席を走って、ロビーを回り込んで舞台の袖に戻ったりと走り回っていたので、公演中に5キロ位やせたことです。アラフォーのやることではございません!」(大笑い)(レ・ミゼラブルなどに比べてキャストがかなり少なかった)「メインキャストの出番より、アンサンブルの見せ場のボリュームが多かったからと思います。」
 「忘れられない出来事は、中日劇場で公演の最中に311の大震災に遭遇したことでした。
古いビルの9階の劇場で、セットが3階の高さに組んであったのですが、中割パネルなどは舞台裏が丸見えになるくらいかなり揺れて(身振りで当時の状況を再現「きゃー怖い!」)一時は中断になるかと思いましたが、舞台が終わりに近く、たまたまゾロが歌う静かなシーンだったので、避難誘導の動きもあったのですが奇跡的に最後まで上演することができました。
ビルの上だったこともあって、体感的には震度6くらいに感じたので、当初は、東海地震だと思いました。・・・スペイン人はパニックになっていました。そして、この大津波の生の映像は、即座に全世界に流れましたが、日本の国内放送では、亡くなった方達の映像はカットされており日本人は目にすることは出来ませんでした。けれども海外ではそのまま流されたので、衝撃的映像に接した海外の人達から、「日本は大丈夫か、とにかく早く帰って来い!」と公演で来日中のスペイン人出演者にも矢の催促が来たと言います。無事に公演を続けられたのは本当に幸運でした。」「この公演では、ジャニーズファンの人など、リピーターがかなり出て、最初は、ゾロ役の坂本君を見ていたそうですが、そのうちにフラメンコ中心に見ていたそうです。皆さん、満足感が高い舞台だったと口々に言ってくれているので、当面は、再演の計画は有りませんが、数年以内には、日本人を中心にして再演があるかも知れません。そのときは、また私も出演するかも知れませんので、是非、“ゾロ”を見に来て下さい。」(ゾロを見た、インタビューワー一同の印象も、分かりやすくてストーリーに入っていけて、フラメンコが見応えが会ってアクションシーンも有り満足だったと意見が一致しました。再演が楽しみです。)
 ここで、大野さんに伺ったことを幾つか紹介します。まず、スペインでの滞在地は、主にヘレスとのこと。ここ南部のアンダルシア州のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市は、シェリー酒とフラメンコ発祥の地としても有名です。フラメンコは日本では踊りとして知られていますが、歌が基本で、その成りたちは、18世紀末と考えられ、カンテと呼ばれる魂の歌にコンパス(拍子)、手拍子、ギターの伴奏と、踊りと次々に加わり、その結果、踊り、歌、ギターの(三位一体)で構成された芸能として発展しました。その起源はヒターノ(スペインジプシー)とムーア人(イスラム教徒)の協働の結果と言われ、人々はフラメンコを心から愛し楽しんでいます。そんなヘレスで、私は知りあった日本在住の邦人所有の家を毎回長期滞在中は借りて自炊生活をしています。
 好きなフラメンコのパフォーマーは、歌い手はアルカンヘル、エストレージャ・モレンテ、マイテ・マルティン、踊り手はメルセデス・ルイス、ロシオ・モリーナ、ファルキート(来年5月来日公演予定)です。趣味は料理で、ミュージカル地方公演中は出演者に良く得意料理を振舞っていました。スペインでは、日本食の食材やスペインの食材を使って楽しんでいます。お酒は好きです。スペイン語の習得は最初についた先生から文法を、次いで会話を習いましたが日常会話程度には話せますが、アンダルシアの人達の発音は訛りがひどくてまだまだ聞き取れません。このあと、フラメンコのリズムや、カスタネット、衣装のことなどについて伺いました。
 今後の予定としては、7月27、28日には岡本倫子スペイン舞踊団の新人公演がシアター千住で、8月10日にフラメンコレストラン「サラ・アンダルーサ」で(恵比寿)、9月2日なタブラオの「カサ・デ・エスペランサ」(高円寺)で、10月には那須で舞踊団の公演が予定されています。詳しくは、グーグルで「大野環」の名前で検索してみて下さい。
 現在は、この5月からEL ANILLO(エル・アニージョ)と言う「大野環フラメンコ・アカデミア」を西武線の大泉学園の近くで週二日、日曜日と木曜日に開いています。生徒は今は入門クラスに5人、経験クラスが1人です。お問い合わせはTel:090 - 6567 - 8470(大野)に、メールはtamaki1972@t.vodafone.ne.jpにお願いします。 
 紫筍55号 直撃インタビュー 大野環・小林伴子対談
録音起こし 梶野茂男 24.5.27
高田馬場 LA DANNSA 
 1 自己紹介 大野環 岡本倫子に師事する。
 大野「小林先輩は、多摩美を卒業された後、最初ジュエリーからスタートされたそうですね。岡本先生は、小林先輩と一緒にスペインにいかれた時、たまたま拾った指輪を先輩に見せたら、岡本「それ、偶然かもしれないけど、私がデザインしたものよ。せっかくだから、貴女が持っていて!と言われたと言ってました。」小林「えっ!全く覚えていないわ。」(笑い)「私は、大学院を卒業した時、彫刻をワークに、ジュエリーをジョブに、踊りをホビーにと人生を3本建てでやって行きたいと計画していました。その頃、もう亡くなられましたが邦雅美さんというカリフォルニア大学の舞踊科の教授をしている方の講習会で、アメリカでは大学を卒業する人が多く、卒業後にワークをジョブに出来る人は少数だと言う話を聞き、それが頭にインプットされました。最初に勤めた会社は小さな宝石の会社で、いきなり、デザイン室の仕事を任されました。それが、プレッシャーで今から考えると、ホビーである踊りに逃げていたのだと思います。そのとき、スペインの文化紹介や物品を扱っているイベリアと言う会社の蒲谷さんと言う方から、「プロになるならやって見ませんか?」と言う誘いを受けて、その気になって、1年で会社をやめてそっちの方に行ってしまいました。葛藤は有ったと思うのですが、B型でのんびりとしているせいか・・・(笑い)これがフラメンコに進んだ経緯で、頭で考えていることではなくて、体験からこの道に進んだということは幸せなことだったと思います。」

 小林「大野さんは、どうしてフラメンコを始めたのですか?」大野「私は、もともとミュージカルをやっていて、そちらが主だったんです。高校を卒業後10年ぐらいうだつが揚がらずにずるずるとやっていたのですが、たまたま、スペインミュージカルのドンキホーテに出ることになりオーデションを受けたのですが「貴女に合う役は踊り子しかない」と言われ、フラメンコをやっていた方が受かると思い、岡本先生のところに習いに行きました。合格して2年間位地方を回りました。2年の契約が切れて次の仕事も決まっていなかったのですが、何故かフラメンコにハマっている自分がいました。」小林「フラメンコって深いですからね!」山田「高校の時は、音楽部で、紫雲祭のときなどミュージカルの歌を歌っていたので回りの仲間達は、大野さんがフラメンコダンサーになったと聞くと、皆、「えっ!何で?」と一様に驚きますね。」大野「友達も、フラメンコをやっていると言うと、「あんた、歌だったんじゃない!何で?」って驚きますね。私にも良く分からないんです!」(笑い)「それから、フラメンコを勉強するために、30才から毎年1~2ヶ月くらいはスペインに通って踊っています。」

小林と大野「フラメンコって、踊りだけではなくて、歌もあり、ギターもあり、言葉もあり、行っても行っても奥があると言う感じですね。」(しばらく、スペイン語の構造について歓談が続いた)・・・大野「私って、リズム音痴で4拍子も取れなかったんです。」(大笑い)小林「でも、リズム感は育つんですよ。25年間教えて来た実感から言えば、持って生まれたキャパシティはあるけれども、やる気や根気があれば、リズム感や音楽のセンスと言うものは育つんですよ。」大野「うーん!」山田「大野さんは、この5月から大泉学園で自身の主催でフラメンコのクラスを持つようになりました。」その話を受けて、フラメンコの教師として、生徒に踊りのポイントをどのように説明して行けばよいのか、自分が自然にやっていることをどう言語化して伝えていけば良いのかについて、小林先輩から大野さんに専門的な用語や事例を交えてフラメンコ教育法の体験的なアドバイスが有り、大いに学ぶところがあったようでした。

 小林「大野さんは、ミュージカルってどうですか普通のフラメンコではない感じですか?今度のゾロなどスペインの方もいらして自分も勉強になったんではないかと思いますが」大野「ミュージカルに戻るつもりはなかったので、ゾロのように本格的なフラメンコが出てくると言うのはやっていて本当にやりがいが有りますね。自分は始めたのが26からと遅かったので、親からは「あんた、今更、方向転換してどうするの?」って言われてたのですが、見に来てくれて、「いいかも知れない!」って言ってくれました。バレーやジャズダンスやタップなどでは「まず、痩せなさい、ダイエットしなさい!」って言われるのでそれがとても嫌だったんです。私は食べることが大好きなので、踊りに重さが必要なフラメンコでは、初めて「ダイエットしなくていい!」と言われて「やった!!」ととても嬉しかったし、フラメンコを始めたきっかけの一つですね。・・・二年前の一月に事務所に行ったら、東宝からゾロのフラメンコダンサーのオーディションのお知らせが来ていました。東宝というのは、劇団四季とならんで日本のミュージカルの二大勢力の一つなのでとても自分には無理だと思ったのですが、ジプシー・キングスが作曲をし「イケてる」ラファエル・アマルゴが振付を担当すると言うので、本当のところはアマルゴに会いたくて応募したんです。(笑い)彼は、ジプシー・キングスに合う振付をすると言うので選ばれたのだと思います。私は、スペインで「ニューヨークの詩人」と言う作品を見たのですが、はじめて3年目位の私には、物凄くエネルギッシュで「これがフラメンコなの?」と感じたことを覚えています。今にして思うと、頭に残っている作品の一つですね。歌い手とダンサーとフラメンコが対象のオーディションには最初何百人も来ていたのですが、私が呼ばれた時には、フラメンコダンサーは7人になっていました。ミュージカルに関心が有って、フラメンコをやっていて、今の仕事を辞めてその仕事を始められる人は少なかったんだと思います。」小林「やはり、いつでもその仕事に対応できるようにスタンバッていると言うのは大変なことで、ミュージカルをやって来ていて良かったですね!」「オーディションでは即興でアレグリアスを踊れと言われて踊りました。最初はアレグリアスと言うカンテの歌を歌えと言われたのですが最初のところしか知らないので、知らないって顔をしたら、ラファエル・アマルゴが歌ってくれて踊りました。この時は、もしかしたら歌って貰うかも知れないって、ジプシー・キングスのバンボレオと言う譜面を渡されていました。終わってから呼び出しされて、楽譜を渡されて音楽担当の方に「ちょっとここのところだけ歌って」と言われ、すこし歌うと「わかったわかった!有難う。」と言われました。(元音楽部ですから譜面は読めるのです。山田)半年後に追加オーディションが有って、それで決まりました。小林「歌えて、踊れると言うのは素晴らしいことですね。」大野「はい、フラメンコを踊れると言う人は一杯来たそうですが、歌えるという人は少なくて、数か月仕事を空けられる人は殆ど居なかったと聞きました。」

 後輩に、小林「さっきも話したけれど、私たち、B型ですよね。(笑い)泣いたり、笑ったりというのは色々有りましたが、嫌になったり辞めようと言うのは一度も有りませんでしたね。踊っていること自体がご飯を食べるように、楽しいことであり、自分の中で何も考えずに進めると言うのは、有る意味で一つの才能だと思います。ここがどうしても出来ないとか芸の上での悩みは良いのですが、生活をする上で、将来どうなるのだろうかとか、こんなことをやっていて良いのだろうかと迷ってしまうと様々な面で進歩が遅くなってしまように思います。
 皆様へ 
 
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