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山手線物語(2011年6月15日)
上野駅の動物園口をでて、東京文化会館(前川國雄設計)と、国立西洋美術館(ル・コルビジェ基本設計)を見て、簡単な解説をしました。
それぞれ、建築学上のモニュメンタルな建物です。(この説明は割愛)

 次ぎに、上野寛永寺の東照宮の入口まで行きました。金堂は金箔で国宝です。動物園の中に、寛永寺の
五重の塔が立っています。動物園の園長は、文京高校の卒業生です。紫筍でかって直撃インタビューをしました。
 この動物園の中に、藤堂高虎の墓がありますが、知る人は少ないですね。巣鴨の染井の墓地は、藤堂家の下屋敷あとで、藤堂家の歴代の墓がありますね。大きな墓所を占めているのですぐに分かると思います。藤堂家は松尾芭蕉の主君筋にあたります。この東照宮には、牡丹苑があり、寒牡丹と春の牡丹の時にくると中々です。

 次ぎに、お化け灯籠を左に見て、上野精養軒の前の小山を登りました。皆さん、上野大仏をご存じですか。
関東大震災で倒れてしまい、現在は、顔しか残っていません。

 その次は、彰義隊の墓です。現在は、西郷隆盛の銅像の下の聚落は改築中なので、彰義隊記念館が片づいていて、墓だけが残っています。ほとんど標識がないので、普通の方は分からないでしょうね。
  とまあ、江戸時代の遺跡と戦後の建築物を駆け足で見て、11時発の籠原行きの普通列車に間にあうように、上野駅の正面玄関口まで回り込みました。この駅舎は、もはや歴史的建造物と言えるでしょう。
ターミナル(頭端駅)形式が残る駅は、東京では上野だけになってしまいました。あとは、みな、パススルー(通過駅)形式ばかりです。駅のホールを抜けて14番線から籠原行きに乗り込み、尾久経由で赤羽までいきました。

 ちなみに、現在、宇都宮線や高崎線、常磐線、東北線などの延伸工事が東京駅に向って進められていますので終着駅上野の歴史的ターミナルは遠からず無くなると思われます。「上野発の夜行列車乗ってみたけど、青森駅は雪の中・・・・」青函連絡船もなくなりました。上野発もなくなるのですね・・・・・

 赤羽につきました。西口にある、イトーヨーカー堂の裏手の高台にこんもりした森がありますが、そこが、旧稲付城跡で、太田道灌の菩提寺として知られる静勝寺(じょうしょうじ)です。杉本会長が立っている後の鞘堂の中に、皆さんが写真などで知っている太田道灌の木造が収められています。
 ここを下ると、下は旧日光御成道で、旧岩槻街道です。江戸時代には、将軍が日光に家康や家光などの墓参りにこの下を大名行列をしたてて、行き交ったことがまるで夢のようですね。

 ちなみに、赤羽は岩槻宿の外れでしたが、日本鉄道東北線が通ったことにより、その後の発展の歴史が変わってしまいました。上野からの最初の駅は王子で、次が赤羽でした。

 私たちは、太田道灌に別れを告げて、旧岩槻街道と埼京線と新幹線の高架沿いの道を歩いて、赤羽八幡神社に向いました。ここは、北区でもっとも古い歴史のある神社とのことです。紀元八百年代、つまり、平安時代の初期に桓武天皇は、坂上田村麻呂に蝦夷を平らげるよう征夷大将軍に命じて東征させました。その田村麻呂がこの地に陣を張り、八幡三神を勧進し、武運長久を祈ったとされます。

 確かに、関東平野の南にあって、古江戸川の氾濫源で葦に覆われたこの川筋の高台は、陣を張るのに最適の場所であったと思われます。

 この南側を現在では北西に向って、東北・上越・長野新幹線と埼京線が神域をかすめるように通過し、星美学園の真下をトンネルで抜けていく風景は不思議な光景に見えます。超近代と、古代が混在しており、新幹線が通りすぎると境内は静まり返り、鳥の声が聞こえてきます。私たちは、「勝負の神様」祀ったとして知られる、八幡さまに柏手を打って赤羽神社を後にして、赤羽駅まで高架下の商店街を抜けて戻りました。
 そして、その後、新宿まで、湘南新宿ラインで、田端の切り通しの更に下をトンネル(山手線で唯一のトンネル)を潜っておなじく、山手線で唯一の中里踏み切りを上にみて、昔の貨物線のラインを通り池袋経由で新宿駅まで行きました。
さて、湘南新宿ラインに乗って、東北線を南下し、田端の切り通しの下をトンネルでくぐり抜け、山手線唯一の踏切である中里踏切を斜めにみて、駒込、巣鴨、大塚と一気に通り抜け、池袋に到着しました。私たちは、そのまま、新宿にまで進みました。
新宿駅の南口より降りて、甲州街道沿いにある、大塚家具(旧三越新館)裏の割烹中嶋で昼食を12時半過ぎに取りました。昼食のメニュー鰯料理4種類だけです。鰯の刺身定食、鰯の煮つけ定食、鰯の塩焼き定食がいずれも800円、鰯の柳川定食だけが950円です。ここは、新宿の和食の名店を語る時に落とせない店です。
 夜はお高いのですが、昼は庶民的な定食を出しているので、皆さんも試しによって下さい。ただ、12時前か、12時半過ぎで少し時間に余裕がないと混んでいて中々入れません。 私たちも10分ほど待ってからテーブルにつきました。ご主人が良くテレビに出演しています。

 昼食を堪能した後は、最初は明治通り沿いにある、天竜禅寺に行きましたが、六地蔵は有りませんでした。住み込みの寺の使用人に聞いても知らないというのですから、勉強不足ですね。止むなく、携帯でグーグルを使い、「江戸六地蔵」とやって、ウィキペディアで見つかりました。最近のケータイはすごいですね。
 結果、新宿通りを四谷方面に向って歩くこと7〜8分。大宗寺に辿り着きました。地下鉄「新宿御苑前」の角の北側でした。ここには、「江戸六地蔵」の一つが笠をかぶり座っています。巣鴨の真性寺の六地蔵と同じ形です。また、ここは、新宿御苑の起源となっている、信州高遠藩の内藤家の菩提寺で、内藤家が大宗寺に寺域を寄進したこともあり、内藤家の墓は松が植わっていてひと際立派なお墓でした。この寺には、江戸では知られた、三途の川の渡し場にいる「奪衣婆」の像と「閻魔大王」の座像が有りました。中々の迫力で、スイッチを押すと、1分間明かりがついて恐ろしい像が浮かび上がります。

この寺を後に、再び、新宿追分を探しに、新宿通りを伊勢丹方面に向いました。中々追分は見つかりませんでしたが、遂に発見しました。

 その場所は、何と、伊勢丹の斜向かいのJTBの新宿支店の前の四つ角の交差点よりの隅に有りました。写真でわかりますよね。ここの交差点の反対側には交番があり、その名も新宿追分交番と言います。
 つまり、伊勢丹がある前の交差点は、新宿追分交差点と言い、江戸時代の甲州街道が青梅街道と分岐する場所を新宿追分と言います。この追分に、後に、明治通り(環状5号線)を通したのでした。東京にも、追分は至る所に残っていますが、気がつきませんか?
 追分には、お地蔵さまや、馬頭観音、その他の石碑が立っていて、道しるべとなっています。

 だから、新宿駅は、内藤新宿という新しい宿場町の町外れに作られたのです。何故か?住民が反対したからです。
 ちなみに、新宿通りは旧青梅街道そのものですし、ガードしたの小道も青梅街道なのです。今の、青梅街道は、バイパスなのです。

 私たちは、この新宿から渋谷まで、本日の山手線の旅で初めて、山手線そのものに乗り、渋谷へと向かいました。

 渋谷は地名の通り、明治神宮の清正の井戸などを水源として麻布の赤羽橋の方へ流れています。ただ、渋谷の駅付近は、暗渠になっていて、かつて、「春の小川はさらさらゆくよ岸のすみれや蓮華の花が・・・・」とうたわれたとはとても思えない風景です。(正確には宇田川町のあたり)
 今回ご案内をするのは、フジフィルムに永年勤め、いつも渋谷を利用されていた杉本会長なので私は、新しい渋谷を案内することにしました。写真を撮り忘れたのですが、地下5階の世界です。
 渋谷の明治通り沿いの地下5階には、副都心線の現在の終点のホームがあります。このホームの先には、渋谷川の下をくり抜いて、東急東横線の新渋谷駅がほぼ完成しています。
 この地下のコンセプトは、宇宙ドームだそうです。一部、地下3階から見下ろせる吹き抜けがあり私たちは、そこから覗き込みました。そして、南口のエレベーターで地上にでました。そこは、建設中の東急ヒカリランドと言う超高層の建物です。あのプラネタリウムの後の建物で、9階あたりにミュージカルのホールができるそうです。

 ちなみに、この渋谷は、初めて来た人にはちょっと謎めいていて、その構造が良くわからない街の代表と言えます。まず、鉄道などの交通機関の交差状態を考えてみると、8階建ての建物を想像して見て下さい。1階は、道路で、明治通り、国道246号など・・・2階は山手線と、埼京線&湘南新宿ライン&港臨海線通過しています。そして、ターミナルとしては、山手線の内側には東急東横線の始発駅があり、外側には、京王井の頭線の始発駅があり、3階には東京メトロの銀座線の終点があり(なんと地下鉄が3階です。事情を知らない「おのぼりさん」には理解不能の世界ですね。)、首都高速3号渋谷線が走っています。地下に眼を向けると、地下一階と地下2階は地下通路で、地下3階には、東京メトロ半蔵門線の終点と東急田園都市線の始発駅があります。
 地下4階は地下通路と乗り換え用の通路があり、地下5階には東京メトロ副都心線の始発駅があります。
 都合、地上3階、地下5階の複雑怪奇な構造となっています。ここを自由に移動できる人は、渋谷通一級の資格がありますね。(^^)
 もひとつおまけで、新しいことを紹介すると、将来、東急東横線のホームが地上2階から地下5階に移動したあとの東急のホームは、埼京線の新ホームになると聞きました。

 ともあれ、地上に出た私たちは、杉本会長の案内で、実践女子学園中高の近くの金王神社を拝観しました。高速道路のすぐそばにある金王神社は、いまから800〜600年ほど前の中世の頃には、台地の外れの張り出した地形を利用して作られた渋谷城のあとにあるとのことでした。
 東京って、少し調べていくと、古いものと新しいものが実に混在している中々不思議な都会だと思いました。 この渋谷を通る街道は、大山道で、かっての大山詣での人々が行き交っていました。さきほど、追分の話をしましたが、三軒茶屋がそうです。世田谷街道と、大山街道の分岐点で、追分そのものです。

 私たちは、金王神社をあとに、渋谷川に掛かる橋をわたって、渋谷駅の新南口から埼京線のホームに入りました。もしかすると、このホームは、将来使わなくなるかも知れません。写真は、新南口のJRホテルメッツのビルです。
 ここから、私たちは、また、湘南新宿ラインに乗り、大崎駅に向いました。途中、恵比寿と目黒の間で、山手線と立体交差をして目黒駅を上に見て山手線の始発駅の大崎につきました。

 大崎駅ってちょっと不思議な感じがしました。何故って、山手線のホームが2本あるのです。それぞれ、内回りと外回りの始発電車がダイヤの発車時刻まで待機しており、その間、ホームの反対側を山手線を一周してきた電車が通りすぎていくのです。だから2本ですね。

 続きは、また次回とします。あとは、品川と新橋の停車場であがりです。
承前(日本鉄道東北線・豊島支線・品川線)最終報告

 私たちは、大崎駅で、湘南新宿ラインから山手線に乗り換えて、始発の外回り電車で品川に向いました。最初の写真は、御殿山付近を過ぎて、第一京浜と京浜急行と立体交差をする、新八ツ山橋と品川の高層ビル群を見るところです。
 品川駅の行政区は、品川区ではなく、港区になります。東海道一番目の宿場町は旧品川宿なのですが、有名な品川宿を駅名としたため、港区にあることになりました。

 山手線の原型は、赤羽(旧岩淵宿)から、東北線の支線として、日本最初の官設鉄道である新橋(現在の汐留の高層ビル街)と横浜を結ぶ東海道線の品川駅に乗り入れる日本鉄道品川線として完成しました。 その主な駅は、北から、岩槻街道(日光御成り道)の最初の宿場(旧岩淵宿)の外れの赤羽、続いて、中山道最初の宿場の板橋仲宿の板橋、続いて、甲州街道と青梅街道の追分にあたる内藤新宿の西の外れの新宿、大山街道(国道246)沿いの渋谷、白金大通り沿いの目黒(目黒の地名のいわれは、江戸五不動の一つ、別当瀧泉寺にある目黒不動尊から来ています)そして、品川宿。地図を広げて見てみると日本橋から北千住を除いた四街道の最初の宿場町を結んでいることが分かります。

 品川線が開通したのは1885年(明治18年)でした。その頃の日本は、殖産興業、文明開化、殖産興業が国是であって、生糸や蚕卵紙や茶などが外貨を稼ぐ主な輸出品でした。このため、関東平野の周辺部の扇状地に江戸時代に発達した、絹織物産地とわが国の最大の輸出港であった横浜に、生糸や絹織物を大量に運ぶことが至上命題となっていました。

 日本鉄道の始発駅上野から、新橋までは、江戸市中で、鉄道馬車が走っていたものの、重量物を運ぶ輸送手段は、水運でした。隅田川をハシケに荷物を積み替えて、新橋までは不便です。
 ですから、政府は、日本鉄道に品川線を貨物輸送のバイパスとして建設することを命じたのでした。

 関東平野を走っている鉄道のルートを良く見ると、熊谷、高崎、前橋、桐生、結城など絹織物の産地を結ぶ線が走っていることがわかります。八高線と言う線がありますが、これは、高崎と八王子を結ぶ鉄道です。そして、織物業の町、八王子から、横浜線と言う鉄道が走っています。
 つまり、高崎と八王子、八王子と横浜を結ぶ物流の動脈です。(現在は、横浜線は通勤線ですが)
 同様に、高崎と赤羽、赤羽と品川そして新橋まで乗り入れれば、当時の東京の都心(旧江戸の市街地)を避けて、郊外の宿場町をつないで、官営鉄道の品川と結ぶ、これが山手線の前身である品川線を計画し、民鉄である日本鉄道に作らせた理由なのです。

 私たちは、浅の10時から4時近くまで上野、赤羽、新宿、渋谷、(大崎)と探訪して来て疲れを覚えたので、一旦、品川駅構内のエチカで、喉を潤すことにしました。
 しかし、駅中商店街はすごいですね。東京、上野、品川・・・・行かないと迷子になってしまいます。いま、新宿南口が再開発の最中です。私たちが知らない東京が生れています。

 最後の電車の旅は、東海道線で品川から新橋まででした。品川から新橋までの東京湾よりは、現在でこそ、高層ビルが立ち並ぶ風景に一変していますが、鉄道が開通した当時は海でした。
 最初の鉄道は、品川から新橋にかけては市街地であり、用地難でした。このため、智恵を絞って海中に築堤をつくり、その上を蒸気機関車を走らせています。スゴイ工夫ですね。この新ルートの作り方は、また、別の機会に、触れたいと思います。ともかく、山手線には新宿→渋谷間と、大崎→品川間だけ乗車して最後も東海道線でした。不思議な感覚です。品川の次の駅が新橋と言うのは。上野の次が尾久で、二駅目が赤羽、赤羽の次が池袋というのもです。普段は乗らないルートで旅をしましたが、私たちは、新橋で銀座口から降りて、旧新橋停車場まで歩きました。そのときの写真です。バックがスゴイですね。超高層ビル、パナソニック、日本テレビなど歩くだけで疲れます。この新橋停車場が本日の目的地です。
 
 最後は、杉本会長と永山催事部長を誘って、有楽町近くのガード下で焼きとりを食べながら打ち上げをしました。
 何故、ここのガード下なのかと言えば、赤煉瓦づくりの高架鉄道のアーチ下の焼鳥屋としてのは、多分、ここにしかないからです。新橋停車場から中央停車場(東京)まで高架で電車を走らせる計画ができて、ドイツの技師が指導して、烏森(新橋)から高架線を伸ばして有楽町駅が開業したのが、明治43年(1910年)です。だから、このレンガづくりのガードは、100年経っている日本最古のアーチ橋なのです。
 ちなみに、この年に開業した山手線の駅は、高田馬場駅、駒込駅(当時は妙義)駅です。

 さて、お話も尽きました。
 今回は、日本鉄道東北線と品川線のお話だったので、次回(来年)の企画は、山手線の「のノ字運転」物語を予定しています。参加者が少ない方が動き易いので、募集はしませんので時間と関心のある方は、申出でておいて下さい。
撮影・文 広報部部長 19期 梶野茂男
 皆様へ 
 
  今後の編集の参考にご意見、ご感想、ご希望をお寄せ下さい。