大野環インタビュー
紫筍55号 直撃インタビュー 43期大野環インタビュー 編集 梶野茂男 24.6.3.
池袋東口 椿屋珈琲店 聞き手 19期安達由美子、19期梶野茂男、41期山田泰斗、
・東宝ミュージカル“ゾロ”(日本初演)にジプシー&農民役で出演する。
そのオーディション合格後(日本人でフラメンコダンサーと言う枠で1人だけ合格する)、
「オーディションでは最後に何か歌えと言われたのでカンテ(フラメンコの歌)を歌いました。歌っている途中でスペイン語の歌詞がわからなくなった(笑い)ので、「終わったな」と思ったら、翌日「合格です!」と言う連絡がきました。演出家のクリスが地声が好きで作った声でなくて地声で歌ったのが良かったみたいです。オーディション合格後、スペイン人の、踊り手が5人、ギタリストが1人来日して2010年12月初めから本稽古と振付に入りました。私は、練習では完全にスペイン人の踊り手と一緒に稽古と振付の練習をしていました。男性陣は兵士役も有ったので女性陣と分かれてフェンシングを専門の振付師の指導で練習し、女性陣はフラメンコの振付けた踊りの練習を約40日程しました。」
安達「一番辛かったのは何だったと思いますか?」
「“ゾロ”の練習中に、辛かったのは、膨大な量の振付を覚えることでした。」
本番は、翌2011年に日生劇場(1/13~2/28)、名古屋中日劇場(3/5~3/20)、大阪梅田劇場メインホール(3/24~3/28)と約2か月半、3か所の公演で活躍しました。
「特に、一番苦しかったのは、歌いながらフラメンコのステップを踏むこと、リベルタードのナンバーで椅子で床をガンガン打ち鳴らしながら歌うことでした(足のステップに集中するのがフラメンコなのに、そこで歌うのですから)。振付したフラメンコダンサーのアマルゴは「これはミュージカルだから仕方ないんだ」と言っていたけど。」(笑い)「彼は、このリベルタードと言うナンバーが一番の見せ場だからと言って」(笑い)・・・「あと辛かったのは、(アンサンブルの人数が18人と少なかったため、一人が何役も早替わりをするため)休む時間がなくて、ジプシーと農民に2幕目などは7回位着替えたり、客席を走って、ロビーを回り込んで舞台の袖に戻ったりと走り回っていたので、公演中に5キロ位やせたことです。アラフォーのやることではございません!」(大笑い)(レ・ミゼラブルなどに比べてキャストがかなり少なかった)「メインキャストの出番より、アンサンブルの見せ場のボリュームが多かったからと思います。」
「忘れられない出来事は、中日劇場で公演の最中に311の大震災に遭遇したことでした。
古いビルの9階の劇場で、セットが3階の高さに組んであったのですが、中割パネルなどは舞台裏が丸見えになるくらいかなり揺れて(身振りで当時の状況を再現「きゃー怖い!」)一時は中断になるかと思いましたが、舞台が終わりに近く、たまたまゾロが歌う静かなシーンだったので、避難誘導の動きもあったのですが奇跡的に最後まで上演することができました。
ビルの上だったこともあって、体感的には震度6くらいに感じたので、当初は、東海地震だと思いました。・・・スペイン人はパニックになっていました。そして、この大津波の生の映像は、即座に全世界に流れましたが、日本の国内放送では、亡くなった方達の映像はカットされており日本人は目にすることは出来ませんでした。けれども海外ではそのまま流されたので、衝撃的映像に接した海外の人達から、「日本は大丈夫か、とにかく早く帰って来い!」と公演で来日中のスペイン人出演者にも矢の催促が来たと言います。無事に公演を続けられたのは本当に幸運でした。」「この公演では、ジャニーズファンの人など、リピーターがかなり出て、最初は、ゾロ役の坂本君を見ていたそうですが、そのうちにフラメンコ中心に見ていたそうです。皆さん、満足感が高い舞台だったと口々に言ってくれているので、当面は、再演の計画は有りませんが、数年以内には、日本人を中心にして再演があるかも知れません。そのときは、また私も出演するかも知れませんので、是非、“ゾロ”を見に来て下さい。」(ゾロを見た、インタビューワー一同の印象も、分かりやすくてストーリーに入っていけて、フラメンコが見応えが会ってアクションシーンも有り満足だったと意見が一致しました。再演が楽しみです。)
ここで、大野さんに伺ったことを幾つか紹介します。まず、スペインでの滞在地は、主にヘレスとのこと。ここ南部のアンダルシア州のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市は、シェリー酒とフラメンコ発祥の地としても有名です。フラメンコは日本では踊りとして知られていますが、歌が基本で、その成りたちは、18世紀末と考えられ、カンテと呼ばれる魂の歌にコンパス(拍子)、手拍子、ギターの伴奏と、踊りと次々に加わり、その結果、踊り、歌、ギターの(三位一体)で構成された芸能として発展しました。その起源はヒターノ(スペインジプシー)とムーア人(イスラム教徒)の協働の結果と言われ、人々はフラメンコを心から愛し楽しんでいます。そんなヘレスで、私は知りあった日本在住の邦人所有の家を毎回長期滞在中は借りて自炊生活をしています。
好きなフラメンコのパフォーマーは、歌い手はアルカンヘル、エストレージャ・モレンテ、マイテ・マルティン、踊り手はメルセデス・ルイス、ロシオ・モリーナ、ファルキート(来年5月来日公演予定)です。趣味は料理で、ミュージカル地方公演中は出演者に良く得意料理を振舞っていました。スペインでは、日本食の食材やスペインの食材を使って楽しんでいます。お酒は好きです。スペイン語の習得は最初についた先生から文法を、次いで会話を習いましたが日常会話程度には話せますが、アンダルシアの人達の発音は訛りがひどくてまだまだ聞き取れません。このあと、フラメンコのリズムや、カスタネット、衣装のことなどについて伺いました。
今後の予定としては、7月27、28日には岡本倫子スペイン舞踊団の新人公演がシアター千住で、8月10日にフラメンコレストラン「サラ・アンダルーサ」で(恵比寿)、9月2日なタブラオの「カサ・デ・エスペランサ」(高円寺)で、10月には那須で舞踊団の公演が予定されています。詳しくは、グーグルで「大野環」の名前で検索してみて下さい。
現在は、この5月からEL ANILLO(エル・アニージョ)と言う「大野環フラメンコ・アカデミア」を西武線の大泉学園の近くで週二日、日曜日と木曜日に開いています。生徒は今は入門クラスに5人、経験クラスが1人です。お問い合わせはTel:090 – 6567 – 8470(大野)に、メールはtamaki1972@t.vodafone.ne.jpにお願いします。
直撃インタビュー 大野環・小林伴子対談
録音起こし 梶野茂男 24.5.27
高田馬場 LA DANNSA
1 自己紹介 大野環 岡本倫子に師事する。
大野「小林先輩は、多摩美を卒業された後、最初ジュエリーからスタートされたそうですね。岡本先生は、小林先輩と一緒にスペインにいかれた時、たまたま拾った指輪を先輩に見せたら、岡本「それ、偶然かもしれないけど、私がデザインしたものよ。せっかくだから、貴女が持っていて!と言われたと言ってました。」小林「えっ!全く覚えていないわ。」(笑い)「私は、大学院を卒業した時、彫刻をワークに、ジュエリーをジョブに、踊りをホビーにと人生を3本建てでやって行きたいと計画していました。その頃、もう亡くなられましたが邦雅美さんというカリフォルニア大学の舞踊科の教授をしている方の講習会で、アメリカでは大学を卒業する人が多く、卒業後にワークをジョブに出来る人は少数だと言う話を聞き、それが頭にインプットされました。最初に勤めた会社は小さな宝石の会社で、いきなり、デザイン室の仕事を任されました。それが、プレッシャーで今から考えると、ホビーである踊りに逃げていたのだと思います。そのとき、スペインの文化紹介や物品を扱っているイベリアと言う会社の蒲谷さんと言う方から、「プロになるならやって見ませんか?」と言う誘いを受けて、その気になって、1年で会社をやめてそっちの方に行ってしまいました。葛藤は有ったと思うのですが、B型でのんびりとしているせいか・・・(笑い)これがフラメンコに進んだ経緯で、頭で考えていることではなくて、体験からこの道に進んだということは幸せなことだったと思います。」
小林「大野さんは、どうしてフラメンコを始めたのですか?」大野「私は、もともとミュージカルをやっていて、そちらが主だったんです。高校を卒業後10年ぐらいうだつが揚がらずにずるずるとやっていたのですが、たまたま、スペインミュージカルのドンキホーテに出ることになりオーデションを受けたのですが「貴女に合う役は踊り子しかない」と言われ、フラメンコをやっていた方が受かると思い、岡本先生のところに習いに行きました。合格して2年間位地方を回りました。2年の契約が切れて次の仕事も決まっていなかったのですが、何故かフラメンコにハマっている自分がいました。」小林「フラメンコって深いですからね!」山田「高校の時は、音楽部で、紫雲祭のときなどミュージカルの歌を歌っていたので回りの仲間達は、大野さんがフラメンコダンサーになったと聞くと、皆、「えっ!何で?」と一様に驚きますね。」大野「友達も、フラメンコをやっていると言うと、「あんた、歌だったんじゃない!何で?」って驚きますね。私にも良く分からないんです!」(笑い)「それから、フラメンコを勉強するために、30才から毎年1~2ヶ月くらいはスペインに通って踊っています。」
小林と大野「フラメンコって、踊りだけではなくて、歌もあり、ギターもあり、言葉もあり、行っても行っても奥があると言う感じですね。」(しばらく、スペイン語の構造について歓談が続いた)・・・大野「私って、リズム音痴で4拍子も取れなかったんです。」(大笑い)小林「でも、リズム感は育つんですよ。25年間教えて来た実感から言えば、持って生まれたキャパシティはあるけれども、やる気や根気があれば、リズム感や音楽のセンスと言うものは育つんですよ。」大野「うーん!」山田「大野さんは、この5月から大泉学園で自身の主催でフラメンコのクラスを持つようになりました。」その話を受けて、フラメンコの教師として、生徒に踊りのポイントをどのように説明して行けばよいのか、自分が自然にやっていることをどう言語化して伝えていけば良いのかについて、小林先輩から大野さんに専門的な用語や事例を交えてフラメンコ教育法の体験的なアドバイスが有り、大いに学ぶところがあったようでした。
小林「大野さんは、ミュージカルってどうですか普通のフラメンコではない感じですか?今度のゾロなどスペインの方もいらして自分も勉強になったんではないかと思いますが」大野「ミュージカルに戻るつもりはなかったので、ゾロのように本格的なフラメンコが出てくると言うのはやっていて本当にやりがいが有りますね。自分は始めたのが26からと遅かったので、親からは「あんた、今更、方向転換してどうするの?」って言われてたのですが、見に来てくれて、「いいかも知れない!」って言ってくれました。バレーやジャズダンスやタップなどでは「まず、痩せなさい、ダイエットしなさい!」って言われるのでそれがとても嫌だったんです。私は食べることが大好きなので、踊りに重さが必要なフラメンコでは、初めて「ダイエットしなくていい!」と言われて「やった!!」ととても嬉しかったし、フラメンコを始めたきっかけの一つですね。・・・二年前の一月に事務所に行ったら、東宝からゾロのフラメンコダンサーのオーディションのお知らせが来ていました。東宝というのは、劇団四季とならんで日本のミュージカルの二大勢力の一つなのでとても自分には無理だと思ったのですが、ジプシー・キングスが作曲をし「イケてる」ラファエル・アマルゴが振付を担当すると言うので、本当のところはアマルゴに会いたくて応募したんです。(笑い)彼は、ジプシー・キングスに合う振付をすると言うので選ばれたのだと思います。私は、スペインで「ニューヨークの詩人」と言う作品を見たのですが、はじめて3年目位の私には、物凄くエネルギッシュで「これがフラメンコなの?」と感じたことを覚えています。今にして思うと、頭に残っている作品の一つですね。歌い手とダンサーとフラメンコが対象のオーディションには最初何百人も来ていたのですが、私が呼ばれた時には、フラメンコダンサーは7人になっていました。ミュージカルに関心が有って、フラメンコをやっていて、今の仕事を辞めてその仕事を始められる人は少なかったんだと思います。」小林「やはり、いつでもその仕事に対応できるようにスタンバッていると言うのは大変なことで、ミュージカルをやって来ていて良かったですね!」「オーディションでは即興でアレグリアスを踊れと言われて踊りました。最初はアレグリアスと言うカンテの歌を歌えと言われたのですが最初のところしか知らないので、知らないって顔をしたら、ラファエル・アマルゴが歌ってくれて踊りました。この時は、もしかしたら歌って貰うかも知れないって、ジプシー・キングスのバンボレオと言う譜面を渡されていました。終わってから呼び出しされて、楽譜を渡されて音楽担当の方に「ちょっとここのところだけ歌って」と言われ、すこし歌うと「わかったわかった!有難う。」と言われました。(元音楽部ですから譜面は読めるのです。山田)半年後に追加オーディションが有って、それで決まりました。小林「歌えて、踊れると言うのは素晴らしいことですね。」大野「はい、フラメンコを踊れると言う人は一杯来たそうですが、歌えるという人は少なくて、数か月仕事を空けられる人は殆ど居なかったと聞きました。」
後輩に、小林「さっきも話したけれど、私たち、B型ですよね。(笑い)泣いたり、笑ったりというのは色々有りましたが、嫌になったり辞めようと言うのは一度も有りませんでしたね。踊っていること自体がご飯を食べるように、楽しいことであり、自分の中で何も考えずに進めると言うのは、有る意味で一つの才能だと思います。ここがどうしても出来ないとか芸の上での悩みは良いのですが、生活をする上で、将来どうなるのだろうかとか、こんなことをやっていて良いのだろうかと迷ってしまうと様々な面で進歩が遅くなってしまように思います。