母校創立80周年を迎えましたが、新型コロナ禍の影響で記念会も延期になっています。そこで、建学当時の一期生から三期生全員で妙高高原で合宿した想い出を書きしるしたいと思います。
昭和17年夏、その頃は前年の太平洋戦争開戦後、日本軍は数ヶ月の間にアジア・太平洋地区の米・英・蘭・仏の植民地を奪取して戦果があがりつつあり、国内ではまだ大きな戦禍もなく過ごした時代での中での学校行事でした。
①妙高山には、行軍の形式で三期E組のラッパ手は池田誠君(故人)全員教練銃を担いでの登山でした。前日には体育(教練担当)の飯塚先生(退役少尉)から登山での靴擦れ防止など懇切でやさしい指導があったと記憶しております。当時はまだ現役軍人の配属将校は着任しておりませんでした。麓の宿舎から夜半に出発、三期生まで全校生が登頂出来たのは昼過ぎまでかかる強行軍でした。
②次の日は、野尻湖までの行軍。そこに、たまたま来られていた尾崎咢堂翁の講話を伺うことになりました。咢堂翁(尾崎行雄)は、戦後まで衆議院議員を務められ「憲政の神様」として衆望を集めれた大政治家です。その昔には東京市長も歴任されましたので、第三東京市立中学校としてのご縁もあったのでしょう。お話の内容の記憶は定かでありませんが、すでに日中戦争(支那事変)が長引いた中です、中国の人々と仲良くすべきというようなことだったと思い返しております。
尾崎行雄先生は、そのお目にかかった2ヶ月程前に行われた、東條内閣により政党を廃した、いわゆる「翼賛選挙」でしたが、先生には大政翼賛会からは非推薦でありながら高い得票をえて当選された事を後日、親から聞かされました。
学校創立から間もない当時は、初代校長の川島源司先生の建学の精神が生かされ、「至誠一貫」の校訓のもとで、形の上では軍隊調でも、教育内容には軍による干渉も僅かだったのではないでしょうか。
今年の「三期E組の90歳を過ぎた翁」のクラス会は6月13日に「コロナ禍を避ける」ように4名だけで集まりましたが、秋以降については、新型コロナの感染拡大を避けるべく、当分は見合わせることにしました。
カテゴリー: 一期〜10期
1期
豊島中学校から文京高校へ(昭和23年4月)
都立豊島中学校は元町小で授業を再開したが、元町小、文京四中が同居する有様だった。昭和23年4月学制改革で新制高校になった。そのときに都立豊島中学校から、文京区に新しく校舎を持つということで「東京都立文京新制高等学校」と校名改称した。文京区からは富坂(現在の中央大学の理工学部のある場所)が、校地候補として提示されたが、水道橋駅から遠く、崖があるなどで決定を控えた。昭和24年にかっての本郷区長との約束が実現しないことが判明し、豊島区西巣鴨に復帰することに決めた。昭和28年に校舎が完成し創設の地に戻った。既に豊島区には都立豊島高校(都立第十高等女学校)があり、名称はそのまま都立文京高校として現在に至っている。「豊島区に文京高校」があるのは、戦災で校舎を焼失し流転したことによるが、奥田行信三代校長は「文京の意味は文京区ではなく、文の京(みやこ)と考えよ」と言われていた。
「紫色旗の下に」から
同窓会誌「紫筍」の名称は、文京小史によると「スクールカラーの紫色と若竹のようにすくすくとあらゆる障害を突き破って躍進するようにと」の造語だということです。
スクールカラーが何故「紫色」なのか・・・・そこで学校創設期に校歌とともに歌われていた「紫色の下に」を紹介して置きたいと思います。
“深き谷間の岩清水・・・・”で始まるこの曲はヨネ・ノグチの名前で戦前から国際的活躍した慶応大学教授の野口米次郎作詞、そして数々の名曲を作った東京音楽学校(現芸大)教授の橋本國彦作曲という一流の作詞、作曲者によるものです。
生徒歌という位置づけで、私ども三期生は、紫色の小旗を指揮に振りながら何かにつけてはよく歌われていました。
その歌詞は現代にそぐわないようで今は歌われないようですが・・・・。何故「紫色旗」なのか?それは当時の東京市のシンボルカラーが紫だということ、現在でも準東京都歌の位置づけにある大正時代に制定された「東京市歌」も“紫においし武蔵野の野辺に・・・”と歌われています。そのスクールカラーも校訓「至誠一貫」と共に伝統されていることは嬉しいことです。
因みに戦前のナンバースクールと呼ばれる学校は東京市立3校に対して、東京府立は23校もあり、市立の学校は設備も教育方針も独特の高い評価を受けていたようです。
三期E組のクラス会、11月17日に間もなく90歳に近づく仲間が集まりました。その折に在学中の住所と現住所の対比表を纏め眺めて旧懐の話し合いをしました。疎開・戦災などで移転したこともあり元の場所に住み続けているのは1名のみ・・・・往時は東京全地域の広い範囲から母校にあこがれて、入学して来た状況を思い出しながら一時を過ごしました。
市立三中の思い出
10月3日 3期E組の矢島稔先輩より下記の手紙が当同窓会に届きました。
また、母校支援の為にと言うことで3万円の寄付も頂きました。
~~~~~ (矢島先輩の手紙) ~~~~~
2日前に同窓会より11月25日(日)のホームカミングデー(第26回同窓生の集い)のお知らせを頂きました。
私は学徒動員に加わる命令を受け、旧制中学(東京市立三中)に入学し、二年生の4月から赤羽の鉄工場で重労働を強いられ、終戦の時3年生でした。学校は柱一本残らず、大きな金庫が残っているだけでした。
直後、全員身体検査の結果、結核の疑い(食物がないまま重労働に耐えていた結果)、校医から明日から休め言われたが、薬はなく食物もなく、2年後復学(昭和23年4月)し、2年おくれて学生生活に復帰、元町小学校の屋上で「生物班」を創設。
以後昆虫学を本格的に学び始め、東京学芸大学(理科生物)を卒業。
卒業後、日本最初の昆虫館を造り、日本各地に設けられた昆虫館の協議会をつくり、初代会長故、今は顧問。
今は毎年、全国大会を開らき、今年はかつて園長をつとめていた多摩動物公園で、加盟23館の代表23名による発表会を11月8、9日に行ないます。
実はこうした公的施設を初めて造り、一般に昆虫の啓蒙を広く行なってきました。
例えば、毎年夏休みにNHKラジオで電話相談で昆虫について答え、昨年で33年になったので引退したところ、NHKより第68回放送文化賞を送られました。
友人たちは次々に亡くなり、石上先生も亡くなり、名簿の上で知っているのは3期A組の太田敏夫さん唯一人。
前にも少し寄付しましたが、母校支援のために3万円をお送りします。どうぞ、放送文化賞を受賞したことを同窓会の皆さんにお知らせ下さい。
仕事がら、土、日は仕事が多く、当日も「ぐんま昆虫の森」に行くので、皆さんによろしく。
敬具
矢島 稔
~~~~~ ( ここまで) ~~~~~
矢島先輩は、日本の昆虫学者として長年活動されてきました。
「NHK放送文化賞」の他に「日本動物学教育賞」を受賞されるなど、輝かしい経歴の持ち主です。
詳しくは次のWeb サイトをご覧下さい。
ウィキペディア(Wikipedia)-矢島 稔
また、左にある様に、皇居・吹上御所の庭に
ホタルを定着させることにも貢献されました。
(都立文京高校同窓会)
全員米寿到達・三期E組クラス会
開戦直後に入学し、敗戦直後に学窓を離れた三期生も全員満88歳に到達。4月7日、7名参加者、当日一番早く89歳の誕生日を迎える塚田行孝君を含めて全員Keep on goingの心掛けで、日々を余りなく充実して過ごしている様子を確認し合いました。
当時は年毎のクラス替えのない制度で、担任の川島計治先生から入学直後に「ここで集まった友達は最も一生で長く付き合う筈だ。友情を大切にしなさい。」との訓示は今でも守られています。それぞれ上級学校(大学)進学し、70年近くのいろいろな分野で活躍しての人生を振り返り、語り合いながらひと時を過ごして秋にはまた集まろうと申し合わせました。
写真は、前列左より小室陽一(学年幹事)狩野幸英・飯田勝治・塚田行孝、
後列 相場俊雄・永山升三・柴田哲夫