紫筍55号 インタビュー

大野環インタビュー 

紫筍55号 直撃インタビュー 43期大野環インタビュー 編集 梶野茂男 24.6.3.
池袋東口 椿屋珈琲店  聞き手 19期安達由美子、19期梶野茂男、41期山田泰斗、

・東宝ミュージカル“ゾロ”(日本初演)にジプシー&農民役で出演する。
 そのオーディション合格後(日本人でフラメンコダンサーと言う枠で1人だけ合格する)、
「オーディションでは最後に何か歌えと言われたのでカンテ(フラメンコの歌)を歌いました。歌っている途中でスペイン語の歌詞がわからなくなった(笑い)ので、「終わったな」と思ったら、翌日「合格です!」と言う連絡がきました。演出家のクリスが地声が好きで作った声でなくて地声で歌ったのが良かったみたいです。オーディション合格後、スペイン人の、踊り手が5人、ギタリストが1人来日して2010年12月初めから本稽古と振付に入りました。私は、練習では完全にスペイン人の踊り手と一緒に稽古と振付の練習をしていました。男性陣は兵士役も有ったので女性陣と分かれてフェンシングを専門の振付師の指導で練習し、女性陣はフラメンコの振付けた踊りの練習を約40日程しました。」
 安達「一番辛かったのは何だったと思いますか?」
「“ゾロ”の練習中に、辛かったのは、膨大な量の振付を覚えることでした。」
本番は、翌2011年に日生劇場(1/13~2/28)、名古屋中日劇場(3/5~3/20)、大阪梅田劇場メインホール(3/24~3/28)と約2か月半、3か所の公演で活躍しました。
「特に、一番苦しかったのは、歌いながらフラメンコのステップを踏むこと、リベルタードのナンバーで椅子で床をガンガン打ち鳴らしながら歌うことでした(足のステップに集中するのがフラメンコなのに、そこで歌うのですから)。振付したフラメンコダンサーのアマルゴは「これはミュージカルだから仕方ないんだ」と言っていたけど。」(笑い)「彼は、このリベルタードと言うナンバーが一番の見せ場だからと言って」(笑い)・・・「あと辛かったのは、(アンサンブルの人数が18人と少なかったため、一人が何役も早替わりをするため)休む時間がなくて、ジプシーと農民に2幕目などは7回位着替えたり、客席を走って、ロビーを回り込んで舞台の袖に戻ったりと走り回っていたので、公演中に5キロ位やせたことです。アラフォーのやることではございません!」(大笑い)(レ・ミゼラブルなどに比べてキャストがかなり少なかった)「メインキャストの出番より、アンサンブルの見せ場のボリュームが多かったからと思います。」
 「忘れられない出来事は、中日劇場で公演の最中に311の大震災に遭遇したことでした。
古いビルの9階の劇場で、セットが3階の高さに組んであったのですが、中割パネルなどは舞台裏が丸見えになるくらいかなり揺れて(身振りで当時の状況を再現「きゃー怖い!」)一時は中断になるかと思いましたが、舞台が終わりに近く、たまたまゾロが歌う静かなシーンだったので、避難誘導の動きもあったのですが奇跡的に最後まで上演することができました。
ビルの上だったこともあって、体感的には震度6くらいに感じたので、当初は、東海地震だと思いました。・・・スペイン人はパニックになっていました。そして、この大津波の生の映像は、即座に全世界に流れましたが、日本の国内放送では、亡くなった方達の映像はカットされており日本人は目にすることは出来ませんでした。けれども海外ではそのまま流されたので、衝撃的映像に接した海外の人達から、「日本は大丈夫か、とにかく早く帰って来い!」と公演で来日中のスペイン人出演者にも矢の催促が来たと言います。無事に公演を続けられたのは本当に幸運でした。」「この公演では、ジャニーズファンの人など、リピーターがかなり出て、最初は、ゾロ役の坂本君を見ていたそうですが、そのうちにフラメンコ中心に見ていたそうです。皆さん、満足感が高い舞台だったと口々に言ってくれているので、当面は、再演の計画は有りませんが、数年以内には、日本人を中心にして再演があるかも知れません。そのときは、また私も出演するかも知れませんので、是非、“ゾロ”を見に来て下さい。」(ゾロを見た、インタビューワー一同の印象も、分かりやすくてストーリーに入っていけて、フラメンコが見応えが会ってアクションシーンも有り満足だったと意見が一致しました。再演が楽しみです。)
 ここで、大野さんに伺ったことを幾つか紹介します。まず、スペインでの滞在地は、主にヘレスとのこと。ここ南部のアンダルシア州のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市は、シェリー酒とフラメンコ発祥の地としても有名です。フラメンコは日本では踊りとして知られていますが、歌が基本で、その成りたちは、18世紀末と考えられ、カンテと呼ばれる魂の歌にコンパス(拍子)、手拍子、ギターの伴奏と、踊りと次々に加わり、その結果、踊り、歌、ギターの(三位一体)で構成された芸能として発展しました。その起源はヒターノ(スペインジプシー)とムーア人(イスラム教徒)の協働の結果と言われ、人々はフラメンコを心から愛し楽しんでいます。そんなヘレスで、私は知りあった日本在住の邦人所有の家を毎回長期滞在中は借りて自炊生活をしています。
 好きなフラメンコのパフォーマーは、歌い手はアルカンヘル、エストレージャ・モレンテ、マイテ・マルティン、踊り手はメルセデス・ルイス、ロシオ・モリーナ、ファルキート(来年5月来日公演予定)です。趣味は料理で、ミュージカル地方公演中は出演者に良く得意料理を振舞っていました。スペインでは、日本食の食材やスペインの食材を使って楽しんでいます。お酒は好きです。スペイン語の習得は最初についた先生から文法を、次いで会話を習いましたが日常会話程度には話せますが、アンダルシアの人達の発音は訛りがひどくてまだまだ聞き取れません。このあと、フラメンコのリズムや、カスタネット、衣装のことなどについて伺いました。
 今後の予定としては、7月27、28日には岡本倫子スペイン舞踊団の新人公演がシアター千住で、8月10日にフラメンコレストラン「サラ・アンダルーサ」で(恵比寿)、9月2日なタブラオの「カサ・デ・エスペランサ」(高円寺)で、10月には那須で舞踊団の公演が予定されています。詳しくは、グーグルで「大野環」の名前で検索してみて下さい。
 現在は、この5月からEL ANILLO(エル・アニージョ)と言う「大野環フラメンコ・アカデミア」を西武線の大泉学園の近くで週二日、日曜日と木曜日に開いています。生徒は今は入門クラスに5人、経験クラスが1人です。お問い合わせはTel:090 – 6567 – 8470(大野)に、メールはtamaki1972@t.vodafone.ne.jpにお願いします。 

直撃インタビュー 大野環・小林伴子対談

録音起こし 梶野茂男 24.5.27
高田馬場 LA DANNSA

1 自己紹介 大野環 岡本倫子に師事する。
 大野「小林先輩は、多摩美を卒業された後、最初ジュエリーからスタートされたそうですね。岡本先生は、小林先輩と一緒にスペインにいかれた時、たまたま拾った指輪を先輩に見せたら、岡本「それ、偶然かもしれないけど、私がデザインしたものよ。せっかくだから、貴女が持っていて!と言われたと言ってました。」小林「えっ!全く覚えていないわ。」(笑い)「私は、大学院を卒業した時、彫刻をワークに、ジュエリーをジョブに、踊りをホビーにと人生を3本建てでやって行きたいと計画していました。その頃、もう亡くなられましたが邦雅美さんというカリフォルニア大学の舞踊科の教授をしている方の講習会で、アメリカでは大学を卒業する人が多く、卒業後にワークをジョブに出来る人は少数だと言う話を聞き、それが頭にインプットされました。最初に勤めた会社は小さな宝石の会社で、いきなり、デザイン室の仕事を任されました。それが、プレッシャーで今から考えると、ホビーである踊りに逃げていたのだと思います。そのとき、スペインの文化紹介や物品を扱っているイベリアと言う会社の蒲谷さんと言う方から、「プロになるならやって見ませんか?」と言う誘いを受けて、その気になって、1年で会社をやめてそっちの方に行ってしまいました。葛藤は有ったと思うのですが、B型でのんびりとしているせいか・・・(笑い)これがフラメンコに進んだ経緯で、頭で考えていることではなくて、体験からこの道に進んだということは幸せなことだったと思います。」

 小林「大野さんは、どうしてフラメンコを始めたのですか?」大野「私は、もともとミュージカルをやっていて、そちらが主だったんです。高校を卒業後10年ぐらいうだつが揚がらずにずるずるとやっていたのですが、たまたま、スペインミュージカルのドンキホーテに出ることになりオーデションを受けたのですが「貴女に合う役は踊り子しかない」と言われ、フラメンコをやっていた方が受かると思い、岡本先生のところに習いに行きました。合格して2年間位地方を回りました。2年の契約が切れて次の仕事も決まっていなかったのですが、何故かフラメンコにハマっている自分がいました。」小林「フラメンコって深いですからね!」山田「高校の時は、音楽部で、紫雲祭のときなどミュージカルの歌を歌っていたので回りの仲間達は、大野さんがフラメンコダンサーになったと聞くと、皆、「えっ!何で?」と一様に驚きますね。」大野「友達も、フラメンコをやっていると言うと、「あんた、歌だったんじゃない!何で?」って驚きますね。私にも良く分からないんです!」(笑い)「それから、フラメンコを勉強するために、30才から毎年1~2ヶ月くらいはスペインに通って踊っています。」

小林と大野「フラメンコって、踊りだけではなくて、歌もあり、ギターもあり、言葉もあり、行っても行っても奥があると言う感じですね。」(しばらく、スペイン語の構造について歓談が続いた)・・・大野「私って、リズム音痴で4拍子も取れなかったんです。」(大笑い)小林「でも、リズム感は育つんですよ。25年間教えて来た実感から言えば、持って生まれたキャパシティはあるけれども、やる気や根気があれば、リズム感や音楽のセンスと言うものは育つんですよ。」大野「うーん!」山田「大野さんは、この5月から大泉学園で自身の主催でフラメンコのクラスを持つようになりました。」その話を受けて、フラメンコの教師として、生徒に踊りのポイントをどのように説明して行けばよいのか、自分が自然にやっていることをどう言語化して伝えていけば良いのかについて、小林先輩から大野さんに専門的な用語や事例を交えてフラメンコ教育法の体験的なアドバイスが有り、大いに学ぶところがあったようでした。

 小林「大野さんは、ミュージカルってどうですか普通のフラメンコではない感じですか?今度のゾロなどスペインの方もいらして自分も勉強になったんではないかと思いますが」大野「ミュージカルに戻るつもりはなかったので、ゾロのように本格的なフラメンコが出てくると言うのはやっていて本当にやりがいが有りますね。自分は始めたのが26からと遅かったので、親からは「あんた、今更、方向転換してどうするの?」って言われてたのですが、見に来てくれて、「いいかも知れない!」って言ってくれました。バレーやジャズダンスやタップなどでは「まず、痩せなさい、ダイエットしなさい!」って言われるのでそれがとても嫌だったんです。私は食べることが大好きなので、踊りに重さが必要なフラメンコでは、初めて「ダイエットしなくていい!」と言われて「やった!!」ととても嬉しかったし、フラメンコを始めたきっかけの一つですね。・・・二年前の一月に事務所に行ったら、東宝からゾロのフラメンコダンサーのオーディションのお知らせが来ていました。東宝というのは、劇団四季とならんで日本のミュージカルの二大勢力の一つなのでとても自分には無理だと思ったのですが、ジプシー・キングスが作曲をし「イケてる」ラファエル・アマルゴが振付を担当すると言うので、本当のところはアマルゴに会いたくて応募したんです。(笑い)彼は、ジプシー・キングスに合う振付をすると言うので選ばれたのだと思います。私は、スペインで「ニューヨークの詩人」と言う作品を見たのですが、はじめて3年目位の私には、物凄くエネルギッシュで「これがフラメンコなの?」と感じたことを覚えています。今にして思うと、頭に残っている作品の一つですね。歌い手とダンサーとフラメンコが対象のオーディションには最初何百人も来ていたのですが、私が呼ばれた時には、フラメンコダンサーは7人になっていました。ミュージカルに関心が有って、フラメンコをやっていて、今の仕事を辞めてその仕事を始められる人は少なかったんだと思います。」小林「やはり、いつでもその仕事に対応できるようにスタンバッていると言うのは大変なことで、ミュージカルをやって来ていて良かったですね!」「オーディションでは即興でアレグリアスを踊れと言われて踊りました。最初はアレグリアスと言うカンテの歌を歌えと言われたのですが最初のところしか知らないので、知らないって顔をしたら、ラファエル・アマルゴが歌ってくれて踊りました。この時は、もしかしたら歌って貰うかも知れないって、ジプシー・キングスのバンボレオと言う譜面を渡されていました。終わってから呼び出しされて、楽譜を渡されて音楽担当の方に「ちょっとここのところだけ歌って」と言われ、すこし歌うと「わかったわかった!有難う。」と言われました。(元音楽部ですから譜面は読めるのです。山田)半年後に追加オーディションが有って、それで決まりました。小林「歌えて、踊れると言うのは素晴らしいことですね。」大野「はい、フラメンコを踊れると言う人は一杯来たそうですが、歌えるという人は少なくて、数か月仕事を空けられる人は殆ど居なかったと聞きました。」

 後輩に、小林「さっきも話したけれど、私たち、B型ですよね。(笑い)泣いたり、笑ったりというのは色々有りましたが、嫌になったり辞めようと言うのは一度も有りませんでしたね。踊っていること自体がご飯を食べるように、楽しいことであり、自分の中で何も考えずに進めると言うのは、有る意味で一つの才能だと思います。ここがどうしても出来ないとか芸の上での悩みは良いのですが、生活をする上で、将来どうなるのだろうかとか、こんなことをやっていて良いのだろうかと迷ってしまうと様々な面で進歩が遅くなってしまように思います。

訃報 静谷晴夫名誉会長

静谷晴夫名誉会長と杉本安弘現会長

静谷晴夫名誉会長(旧四期B)は3月19日(火)朝 都立大塚病院逝去されました。82歳 謹んで哀悼の意を捧げます。
なお通夜は3月22日(金)18時~ 告別式は3月23日(土)9時30分~11時に桐ヶ谷斎場で悲しみのなか多数の参列者に見守られて厳かに執り行われました。

同窓会会長 杉本安弘

1.   静谷晴夫さんの学歴

昭和5年7月10日 長野県(現在の)須坂市で誕生。小学生の時に上京、現在地(豊島区西巣鴨4丁目)に住む。
昭和18年4月   第三東京市立中学校(その後都立豊島中学校→文京高校)に入学
昭和23年3月東京都立豊島中学校卒業(旧四期)
昭和34年3月   東京医科歯科大学博士課程を卒業 医学博士

2.  評伝   以下のことは私が静谷先輩から直接伺ったことを基に書きますが、聞き違い・記憶違いがあると思います。お気づきの点はご連絡ください。
1) 都制実施・勤労動員・学制改革
(1) 静谷さんが入学した昭和18年の7月には東京都制(東京府・市の2重行政を解消)の実施に伴い、校名は東京都立豊島中学校と改称された。当時学校には陸軍から配属された将校1名がいる時代で、体育のKという教師が理由をつけては生徒を殴っていました。通夜のお清めの席で同期の方々は「ビンタ」の話題で盛り上がっておりました。
(2) また昭和19年3月には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が実施され、中学生も勤労動員に駆り出された。2年生は深川で薪運びとか防空壕堀りなど軽作業であったが、昭和20年4月13日の城北地区の大空襲で学校は全焼した。  校舎が焼けた後の5月に3年生は軍需工場に勤労動員させられた。静谷さんからは「中学時代電気のことは学ぶ機会がなかったので今でも知識が全くなくて困っている」と聞かされました。    (3) 静谷さんの学年はまた学制改革で翻弄された学年でもあった。 1年上の学年は「旧制」で通すことが出来たが、静谷さんの学年は①中学5年で卒業するか。旧制高校に入学しても1年で新制大学を受験しなければならなかった。 ② もう1年学校に居て新制高校1期として卒業するか、苦渋の選択をせざるを得なかった。静谷さんも「新制大学受験には新制高校を出ていなければとの噂があり、その1年間を千葉医大付属薬専に通いながら文京にも顔を出していた。」との話を伺っております。

  2)  同窓会活動

(1) 同窓会での役職
昭和23年度~29年度(7年間) 同窓会発足とともに副会長   昭和30年度~34年度(5年間) 会長(第1次)   昭和35年度~39年度(5年間) 監査   平成4年度(1年間) 副会長 この年は文京高校の「新校舎落成並びに(2年遅れの)創立50周年記念祝賀会」が開催された。   平成5年度~13年度(9年間) 会長(第2次)   平成14年度~逝去 (11年間) 名誉会長
(2) 同窓会活動は昭和23年度から始まるが、会則などは静谷さんの自宅で作成した。 その意味では「同窓会」の生みの親とも言える。なお旧制中学校卒業時満17歳で副会長になっている。初代会長の山之内昭夫さん(旧一期)は満20歳です。
(3) 会長には2度通算14年間就く。その意味では「同窓会」育ての親でもある。  参考までに昭和23年度~29年度の7年間は山之内昭夫さん・鳥海純さん・戸田豊鉄さんの旧一期3人が会長になっていた。そして昭和30年度同窓会長に就任された。昭和35年度医師の仕事が忙しくなったので、会長職は新4期の長谷部信さんに譲られたが、長谷部さんが昭和38年度に辞意を表明し、旧一期の渡辺剛彰さんが会長になられた。渡辺さんは昭和38年~平成4年度まで30年間会長であった。   私は平成5年から静谷会長のもとで役員になったが、静谷さんが「長谷部君が会長を旧一期に戻したから、また会長をやるはめになった。どんどん下に送っていれば今頃会長も役員ももっと若い人が活躍できたのに」と嘆かれておりました。

3) 学校運営連絡協議会 委員      文京高校では、他の都立学校(平成14年度から)に先立ち平成11年度から学校運営連絡協議会を実施している。   静谷さんは平成11年度~23年度まで13年間委員となる。(初めは同窓会長として、後半は豊島区教育委員会の委員及び委員長として)

4) 他の役職    豊島区医師会長、東京都医師会の常任委員として活躍

5) 酒について     静谷さんと酒の話は尽きない。新潟県燕市の「ほしの酒造」から吟醸酒を樽買いし「静谷正宗」として1升瓶・4合瓶に詰めて会合に持ち込んでいられました。   同窓会の秋の行事「同窓生の集い」が平成5年から毎年開催されているが、毎年「静谷正宗」1升瓶を10本程度持ち込んでおられた。「同窓生の集い」参加者からは「会費2千円払っても静谷さんの酒が飲のめるから安い」と言われていました。   「第16回同窓生の集い」(平成20年)に当り人騒動があった。この年は戸谷賢司校長が赴任した年であります。戸谷先生は全国高校校長協会の会長になられました。また東京都が都有地内での禁煙・禁酒を徹底した年でもありました。同窓会役員会では静谷さんの吟醸酒持ち込みについて、「継続派」と「中止派」が激論し、「戸谷校長に迷惑はかけられない」と中止に決まりました。
告別式でマイクから「東大医学部を受験したが、その前日お酒を飲みすぎて当日酔いがまわって失敗した。」と放送されたが、私は静谷さんから「酒かすが手に入り、試験前夜飲んだら数学の試験の時に酔いがまわって失敗した。」と伺っています。
また静谷さんは「熱燗」は好まれなかった。若い時は同窓会誌「紫筍」に「ワインの勧め」を書いたくらいです。その後醸造技術が進歩し美味しい吟醸酒ができてきたので、吟醸派になられたようです。お酒は最初こそお飲みになられたが、注いでまわることが多かったようにお見うけしております。
静谷先輩色々なことを教えてくださりありがとうございます。思い出話は尽きません。暫く経てば我々も参ります。浄土でもまた教えてください。  合掌

山手線物語(2011年6月15日)

上野駅の動物園口をでて、東京文化会館(前川國雄設計)と、国立西洋美術館(ル・コルビジェ基本設計)を見て、簡単な解説をしました。
それぞれ、建築学上のモニュメンタルな建物です。(この説明は割愛)

 次ぎに、上野寛永寺の東照宮の入口まで行きました。金堂は金箔で国宝です。動物園の中に、寛永寺の
五重の塔が立っています。動物園の園長は、文京高校の卒業生です。紫筍でかって直撃インタビューをしました。
 この動物園の中に、藤堂高虎の墓がありますが、知る人は少ないですね。巣鴨の染井の墓地は、藤堂家の下屋敷あとで、藤堂家の歴代の墓がありますね。大きな墓所を占めているのですぐに分かると思います。藤堂家は松尾芭蕉の主君筋にあたります。この東照宮には、牡丹苑があり、寒牡丹と春の牡丹の時にくると中々です。

 次ぎに、お化け灯籠を左に見て、上野精養軒の前の小山を登りました。皆さん、上野大仏をご存じですか。
関東大震災で倒れてしまい、現在は、顔しか残っていません。

 その次は、彰義隊の墓です。現在は、西郷隆盛の銅像の下の聚落は改築中なので、彰義隊記念館が片づいていて、墓だけが残っています。ほとんど標識がないので、普通の方は分からないでしょうね。

 とまあ、江戸時代の遺跡と戦後の建築物を駆け足で見て、11時発の籠原行きの普通列車に間にあうように、上野駅の正面玄関口まで回り込みました。この駅舎は、もはや歴史的建造物と言えるでしょう。
ターミナル(頭端駅)形式が残る駅は、東京では上野だけになってしまいました。あとは、みな、パススルー(通過駅)形式ばかりです。駅のホールを抜けて14番線から籠原行きに乗り込み、尾久経由で赤羽までいきました。

 ちなみに、現在、宇都宮線や高崎線、常磐線、東北線などの延伸工事が東京駅に向って進められていますので終着駅上野の歴史的ターミナルは遠からず無くなると思われます。「上野発の夜行列車乗ってみたけど、青森駅は雪の中・・・・」青函連絡船もなくなりました。上野発もなくなるのですね・・・・・

 赤羽につきました。西口にある、イトーヨーカー堂の裏手の高台にこんもりした森がありますが、そこが、旧稲付城跡で、太田道灌の菩提寺として知られる静勝寺(じょうしょうじ)です。杉本会長が立っている後の鞘堂の中に、皆さんが写真などで知っている太田道灌の木造が収められています。
 ここを下ると、下は旧日光御成道で、旧岩槻街道です。江戸時代には、将軍が日光に家康や家光などの墓参りにこの下を大名行列をしたてて、行き交ったことがまるで夢のようですね。

 ちなみに、赤羽は岩槻宿の外れでしたが、日本鉄道東北線が通ったことにより、その後の発展の歴史が変わってしまいました。上野からの最初の駅は王子で、次が赤羽でした。

 私たちは、太田道灌に別れを告げて、旧岩槻街道と埼京線と新幹線の高架沿いの道を歩いて、赤羽八幡神社に向いました。ここは、北区でもっとも古い歴史のある神社とのことです。紀元八百年代、つまり、平安時代の初期に桓武天皇は、坂上田村麻呂に蝦夷を平らげるよう征夷大将軍に命じて東征させました。その田村麻呂がこの地に陣を張り、八幡三神を勧進し、武運長久を祈ったとされます。

 確かに、関東平野の南にあって、古江戸川の氾濫源で葦に覆われたこの川筋の高台は、陣を張るのに最適の場所であったと思われます。

 この南側を現在では北西に向って、東北・上越・長野新幹線と埼京線が神域をかすめるように通過し、星美学園の真下をトンネルで抜けていく風景は不思議な光景に見えます。超近代と、古代が混在しており、新幹線が通りすぎると境内は静まり返り、鳥の声が聞こえてきます。私たちは、「勝負の神様」祀ったとして知られる、八幡さまに柏手を打って赤羽神社を後にして、赤羽駅まで高架下の商店街を抜けて戻りました。
 そして、その後、新宿まで、湘南新宿ラインで、田端の切り通しの更に下をトンネル(山手線で唯一のトンネル)を潜っておなじく、山手線で唯一の中里踏み切りを上にみて、昔の貨物線のラインを通り池袋経由で新宿駅まで行きました。

さて、湘南新宿ラインに乗って、東北線を南下し、田端の切り通しの下をトンネルでくぐり抜け、山手線唯一の踏切である中里踏切を斜めにみて、駒込、巣鴨、大塚と一気に通り抜け、池袋に到着しました。私たちは、そのまま、新宿にまで進みました。
新宿駅の南口より降りて、甲州街道沿いにある、大塚家具(旧三越新館)裏の割烹中嶋で昼食を12時半過ぎに取りました。昼食のメニュー鰯料理4種類だけです。鰯の刺身定食、鰯の煮つけ定食、鰯の塩焼き定食がいずれも800円、鰯の柳川定食だけが950円です。ここは、新宿の和食の名店を語る時に落とせない店です。
 夜はお高いのですが、昼は庶民的な定食を出しているので、皆さんも試しによって下さい。ただ、12時前か、12時半過ぎで少し時間に余裕がないと混んでいて中々入れません。 私たちも10分ほど待ってからテーブルにつきました。ご主人が良くテレビに出演しています。

 昼食を堪能した後は、最初は明治通り沿いにある、天竜禅寺に行きましたが、六地蔵は有りませんでした。住み込みの寺の使用人に聞いても知らないというのですから、勉強不足ですね。止むなく、携帯でグーグルを使い、「江戸六地蔵」とやって、ウィキペディアで見つかりました。最近のケータイはすごいですね。
 結果、新宿通りを四谷方面に向って歩くこと7~8分。大宗寺に辿り着きました。地下鉄「新宿御苑前」の角の北側でした。ここには、「江戸六地蔵」の一つが笠をかぶり座っています。巣鴨の真性寺の六地蔵と同じ形です。また、ここは、新宿御苑の起源となっている、信州高遠藩の内藤家の菩提寺で、内藤家が大宗寺に寺域を寄進したこともあり、内藤家の墓は松が植わっていてひと際立派なお墓でした。この寺には、江戸では知られた、三途の川の渡し場にいる「奪衣婆」の像と「閻魔大王」の座像が有りました。中々の迫力で、スイッチを押すと、1分間明かりがついて恐ろしい像が浮かび上がります。

この寺を後に、再び、新宿追分を探しに、新宿通りを伊勢丹方面に向いました。中々追分は見つかりませんでしたが、遂に発見しました。

 その場所は、何と、伊勢丹の斜向かいのJTBの新宿支店の前の四つ角の交差点よりの隅に有りました。写真でわかりますよね。ここの交差点の反対側には交番があり、その名も新宿追分交番と言います。
 つまり、伊勢丹がある前の交差点は、新宿追分交差点と言い、江戸時代の甲州街道が青梅街道と分岐する場所を新宿追分と言います。この追分に、後に、明治通り(環状5号線)を通したのでした。東京にも、追分は至る所に残っていますが、気がつきませんか?
 追分には、お地蔵さまや、馬頭観音、その他の石碑が立っていて、道しるべとなっています。

 だから、新宿駅は、内藤新宿という新しい宿場町の町外れに作られたのです。何故か?住民が反対したからです。
 ちなみに、新宿通りは旧青梅街道そのものですし、ガードしたの小道も青梅街道なのです。今の、青梅街道は、バイパスなのです。

 私たちは、この新宿から渋谷まで、本日の山手線の旅で初めて、山手線そのものに乗り、渋谷へと向かいました。

 渋谷は地名の通り、明治神宮の清正の井戸などを水源として麻布の赤羽橋の方へ流れています。ただ、渋谷の駅付近は、暗渠になっていて、かつて、「春の小川はさらさらゆくよ岸のすみれや蓮華の花が・・・・」とうたわれたとはとても思えない風景です。(正確には宇田川町のあたり)
 今回ご案内をするのは、フジフィルムに永年勤め、いつも渋谷を利用されていた杉本会長なので私は、新しい渋谷を案内することにしました。写真を撮り忘れたのですが、地下5階の世界です。
 渋谷の明治通り沿いの地下5階には、副都心線の現在の終点のホームがあります。このホームの先には、渋谷川の下をくり抜いて、東急東横線の新渋谷駅がほぼ完成しています。
 この地下のコンセプトは、宇宙ドームだそうです。一部、地下3階から見下ろせる吹き抜けがあり私たちは、そこから覗き込みました。そして、南口のエレベーターで地上にでました。そこは、建設中の東急ヒカリランドと言う超高層の建物です。あのプラネタリウムの後の建物で、9階あたりにミュージカルのホールができるそうです。

 ちなみに、この渋谷は、初めて来た人にはちょっと謎めいていて、その構造が良くわからない街の代表と言えます。まず、鉄道などの交通機関の交差状態を考えてみると、8階建ての建物を想像して見て下さい。1階は、道路で、明治通り、国道246号など・・・2階は山手線と、埼京線&湘南新宿ライン&港臨海線通過しています。そして、ターミナルとしては、山手線の内側には東急東横線の始発駅があり、外側には、京王井の頭線の始発駅があり、3階には東京メトロの銀座線の終点があり(なんと地下鉄が3階です。事情を知らない「おのぼりさん」には理解不能の世界ですね。)、首都高速3号渋谷線が走っています。地下に眼を向けると、地下一階と地下2階は地下通路で、地下3階には、東京メトロ半蔵門線の終点と東急田園都市線の始発駅があります。
 地下4階は地下通路と乗り換え用の通路があり、地下5階には東京メトロ副都心線の始発駅があります。
 都合、地上3階、地下5階の複雑怪奇な構造となっています。ここを自由に移動できる人は、渋谷通一級の資格がありますね。(^^)
 もひとつおまけで、新しいことを紹介すると、将来、東急東横線のホームが地上2階から地下5階に移動したあとの東急のホームは、埼京線の新ホームになると聞きました。

 ともあれ、地上に出た私たちは、杉本会長の案内で、実践女子学園中高の近くの金王神社を拝観しました。高速道路のすぐそばにある金王神社は、いまから800~600年ほど前の中世の頃には、台地の外れの張り出した地形を利用して作られた渋谷城のあとにあるとのことでした。
 東京って、少し調べていくと、古いものと新しいものが実に混在している中々不思議な都会だと思いました。 この渋谷を通る街道は、大山道で、かっての大山詣での人々が行き交っていました。さきほど、追分の話をしましたが、三軒茶屋がそうです。世田谷街道と、大山街道の分岐点で、追分そのものです。

 私たちは、金王神社をあとに、渋谷川に掛かる橋をわたって、渋谷駅の新南口から埼京線のホームに入りました。もしかすると、このホームは、将来使わなくなるかも知れません。写真は、新南口のJRホテルメッツのビルです。
 ここから、私たちは、また、湘南新宿ラインに乗り、大崎駅に向いました。途中、恵比寿と目黒の間で、山手線と立体交差をして目黒駅を上に見て山手線の始発駅の大崎につきました。

 大崎駅ってちょっと不思議な感じがしました。何故って、山手線のホームが2本あるのです。それぞれ、内回りと外回りの始発電車がダイヤの発車時刻まで待機しており、その間、ホームの反対側を山手線を一周してきた電車が通りすぎていくのです。だから2本ですね。

 続きは、また次回とします。あとは、品川と新橋の停車場であがりです。

承前(日本鉄道東北線・豊島支線・品川線)最終報告

 私たちは、大崎駅で、湘南新宿ラインから山手線に乗り換えて、始発の外回り電車で品川に向いました。最初の写真は、御殿山付近を過ぎて、第一京浜と京浜急行と立体交差をする、新八ツ山橋と品川の高層ビル群を見るところです。
 品川駅の行政区は、品川区ではなく、港区になります。東海道一番目の宿場町は旧品川宿なのですが、有名な品川宿を駅名としたため、港区にあることになりました。

 山手線の原型は、赤羽(旧岩淵宿)から、東北線の支線として、日本最初の官設鉄道である新橋(現在の汐留の高層ビル街)と横浜を結ぶ東海道線の品川駅に乗り入れる日本鉄道品川線として完成しました。 その主な駅は、北から、岩槻街道(日光御成り道)の最初の宿場(旧岩淵宿)の外れの赤羽、続いて、中山道最初の宿場の板橋仲宿の板橋、続いて、甲州街道と青梅街道の追分にあたる内藤新宿の西の外れの新宿、大山街道(国道246)沿いの渋谷、白金大通り沿いの目黒(目黒の地名のいわれは、江戸五不動の一つ、別当瀧泉寺にある目黒不動尊から来ています)そして、品川宿。地図を広げて見てみると日本橋から北千住を除いた四街道の最初の宿場町を結んでいることが分かります。

 品川線が開通したのは1885年(明治18年)でした。その頃の日本は、殖産興業、文明開化、殖産興業が国是であって、生糸や蚕卵紙や茶などが外貨を稼ぐ主な輸出品でした。このため、関東平野の周辺部の扇状地に江戸時代に発達した、絹織物産地とわが国の最大の輸出港であった横浜に、生糸や絹織物を大量に運ぶことが至上命題となっていました。

 日本鉄道の始発駅上野から、新橋までは、江戸市中で、鉄道馬車が走っていたものの、重量物を運ぶ輸送手段は、水運でした。隅田川をハシケに荷物を積み替えて、新橋までは不便です。
 ですから、政府は、日本鉄道に品川線を貨物輸送のバイパスとして建設することを命じたのでした。

 関東平野を走っている鉄道のルートを良く見ると、熊谷、高崎、前橋、桐生、結城など絹織物の産地を結ぶ線が走っていることがわかります。八高線と言う線がありますが、これは、高崎と八王子を結ぶ鉄道です。そして、織物業の町、八王子から、横浜線と言う鉄道が走っています。
 つまり、高崎と八王子、八王子と横浜を結ぶ物流の動脈です。(現在は、横浜線は通勤線ですが)
 同様に、高崎と赤羽、赤羽と品川そして新橋まで乗り入れれば、当時の東京の都心(旧江戸の市街地)を避けて、郊外の宿場町をつないで、官営鉄道の品川と結ぶ、これが山手線の前身である品川線を計画し、民鉄である日本鉄道に作らせた理由なのです。

 私たちは、浅の10時から4時近くまで上野、赤羽、新宿、渋谷、(大崎)と探訪して来て疲れを覚えたので、一旦、品川駅構内のエチカで、喉を潤すことにしました。
 しかし、駅中商店街はすごいですね。東京、上野、品川・・・・行かないと迷子になってしまいます。いま、新宿南口が再開発の最中です。私たちが知らない東京が生れています。

 最後の電車の旅は、東海道線で品川から新橋まででした。品川から新橋までの東京湾よりは、現在でこそ、高層ビルが立ち並ぶ風景に一変していますが、鉄道が開通した当時は海でした。
 最初の鉄道は、品川から新橋にかけては市街地であり、用地難でした。このため、智恵を絞って海中に築堤をつくり、その上を蒸気機関車を走らせています。スゴイ工夫ですね。この新ルートの作り方は、また、別の機会に、触れたいと思います。ともかく、山手線には新宿→渋谷間と、大崎→品川間だけ乗車して最後も東海道線でした。不思議な感覚です。品川の次の駅が新橋と言うのは。上野の次が尾久で、二駅目が赤羽、赤羽の次が池袋というのもです。普段は乗らないルートで旅をしましたが、私たちは、新橋で銀座口から降りて、旧新橋停車場まで歩きました。そのときの写真です。バックがスゴイですね。超高層ビル、パナソニック、日本テレビなど歩くだけで疲れます。この新橋停車場が本日の目的地です。
 
 最後は、杉本会長と永山催事部長を誘って、有楽町近くのガード下で焼きとりを食べながら打ち上げをしました。
 何故、ここのガード下なのかと言えば、赤煉瓦づくりの高架鉄道のアーチ下の焼鳥屋としてのは、多分、ここにしかないからです。新橋停車場から中央停車場(東京)まで高架で電車を走らせる計画ができて、ドイツの技師が指導して、烏森(新橋)から高架線を伸ばして有楽町駅が開業したのが、明治43年(1910年)です。だから、このレンガづくりのガードは、100年経っている日本最古のアーチ橋なのです。
 ちなみに、この年に開業した山手線の駅は、高田馬場駅、駒込駅(当時は妙義)駅です。

 さて、お話も尽きました。
 今回は、日本鉄道東北線と品川線のお話だったので、次回(来年)の企画は、山手線の「のノ字運転」物語を予定しています。参加者が少ない方が動き易いので、募集はしませんので時間と関心のある方は、申出でておいて下さい。

撮影・文 広報部部長 19期 梶野茂男

傘寿同期会 (豊島中四期・文京高I期)

(写真撮影 秋山 満(D)

平成22年11月25日 (木) 北の家族大塚店で開催。幹事 前田禎美 (A) 静谷晴夫 (B,代表)、原 巍 (C)、高橋 明 (D)、近藤喜男         (E),菊池達長 (D,庶務)で呼びかけを行い、同期生32名、同夫人3名として橘先生が参加さ れ、傘寿を記念し司会菊池 静谷代表挨拶 橘先生挨拶        高橋幹事乾杯 出席者挨拶で盛大に行われた。
1969 年に第1回同期会を茗渓会館ではじめてから50 回毎年開催されたが、傘寿を区切りとして同期会は行わず、歩こう会をはじめ有志の活動に変えた。