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    HOMEあの人に聞く(同窓生・担任便り)>山浦 徳明先生
生徒への厳しさは愛情の裏返し
山浦 徳明先生
(34期G組担任 昭和49年〜58年 体育 57歳 現在都立国分寺高校生活指導主任)
 
 − 教師になるキッカケは?

 山浦 群馬県下でトップ3の県立渋川高校に入り、スポーツはもちろん勉強も一生懸命努力
     していた。当時、様々な教師と出会い感化を受けたのがきっかけで、高校2年生のと
     き教師を目指す決意をした。

 − 山浦先生と言うと、バレーボールをまず思い浮かべますが?

 山浦 元々、高校時代はスキーの選手だった。1年生の時、球技大会でバレーボールで活
     躍したんだ。そしたら、バレー部の顧問から「夏場だけやってみないか」って誘われ、試合に出たら、群馬県で準
     優勝、そのまま関東大会出場となり、スキーと両立になった。

 スキーでオリンピック代表候補に

 山浦 日本体育大学ではスキーを続け、オリンピックを目指して頑張り、代表にまで残ったけど、大怪我をしてしまい、
     オリンピックには一歩とどかなかった。教師になってからは、スキーを指導する機会がなく、もっぱらバレーボール
     を指導した。でもスキーは28歳までは現役の選手として頑張っていたんだ。バレーボールも教員チームで国体へ
     出場し、しばらくはバレーボールとスキーと両方やっていたね。

 − 教員生活は文京からですか?

 山浦 大森高が最初で、2年間いた。その次に文京に赴任になった。このまま文京で教員を続け、骨を埋めるつもりだっ
     たが、教員の強制異動が始まったため、文京は9年間で異動することになった。その後は、浅草橋の忍岡高、多
     摩地区の砂川高へと赴任し、更にその後は、拝島高、豊島高、去年からは国分寺高で生活指導主任とバレー部
     を指導している。
      砂川高までのバレー部は全て関東大会へ進ませた。豊島高は2年間しかいなかったけれど、都立ベスト8に入
     った。今いる国分寺高のバレー部はここ1年でだいぶ強くなり、3年生最後の大会、インターハイ予選では東京都
     ベスト16になった。

 − 先生が文京高校で印象に残っている出来事は・・・。

 山浦 やはりバレー部だな。関東大会へ行かせるのに必死だった。共栄高校から15点マッチの13点を取ったが、あと
     一歩というところで負けてしまい都大会ベスト16で終わった。当時は男子バスケット部も強くて、関東大会へ出場
     していたね。

 − 担任された34期G組は、どんな印象がありますか?

 山浦 運動が苦手な生徒が多くて、担任が体育の先生と言うのに、あまり活発ではなかったね(笑)。
     隣の君達のF組は活発なクラスだったね。

 − 体育と言えば、A組の梨本君を覚えていますか?

 山浦 もちろん覚えているよ。現在は都立城東高校の野球部監督で、甲子園へ選手を連れて行ったそうだね。甲子園
     へ行くときに「先生、甲子園ではどうやったらいいんでしょうか?」と電話を掛けてきたので、「普通にやってこ
     い!」と、活を入れてやった(笑)。

 − 34期は1年生の時の大島旅行もなく、修学旅行は定番の京都でもう一つ盛り上がりませんでした・・・。

 山浦 当時、修学旅行をやめようという話はしょっちゅうあった。必要ないと考える教師が結構いたんだ。それに加え
     て、確か33期の修学旅行で飲酒の問題があって・・・。これらの影響で、行き先も選べず京都旅行のみだったの
     かも知れない。

 奥様は文京の卒業生??

 − 文京で仲の良かった先生は・・・。

 山浦 あの学校は先生たちが皆、仲が良かったね。ちゅうちゃん(高野先生)、渡辺先生、濁川先生、樺沢先生。先輩
     でも、深沢先生、亀井先生、福留先生、治朗さん(木村先生)。樺沢先生とは先日もゴルフに行ってきた。杉谷先
     生には、女房ともどもお世話になった。

 − 奥様は文京の卒業生とか・・・。

 山浦 女房が卒業生なんて噂があるが、違いますよ。教育実習生でもない。実は、最初に赴任した大森高の卒業生。
     彼女は油絵をやっていて、私の誕生日に絵を描いてくれたのがきっかけだね。

 − お子様もスポーツマン?

 山浦 26歳と24歳の息子がいる。息子がまだ幼い頃、私が帰宅すると二人して玄関に駆けてきて、私の「気をつけ!
     休め!礼!」の号令にピチっと合わせてた(笑)。躾は厳しくしてたね。スポーツは、中学校にバレー部がなかっ
     たから、バスケットをやっていた。その応援に行ったことも度々あった。長男は結婚はまだだけど、今は家を出て
     独立している。女房に似て文学青年として育ち、IT関係の仕事をしている。俺の息子なら、スポーツマンじゃなき
     ゃなぁ(笑)。

 − ご子息の命名にクラスが協力したとか・・・。

 山浦 その長男の名前だが、自分の名前から一字取り、五つぐらい案を考えた。それを担任していた3年G組の黒板に
     書き、生徒に人気投票をしてもらい、辰年でもないのに「辰徳」と決めた(笑)。

 − 巨人軍の監督「原辰徳」から取ったんですよね。

 山浦 教員チームのバレーボールで国体へ行ったとき、東京の隣が神奈川選手団で、そこにちょうど高校3年生の原辰
     徳がいた。今、早稲田の斉藤選手がハンカチ王子と言われてるように、当時彼はマスコミに騒がれていた。私は
     きっとあんなに騒がれて生意気なんだろうと勝手にイメージしていた。そしたら非常に礼儀正しい良い子で、いつ
     か子供が生まれたら「辰徳」と、名前をつけたいと思っていたんだ。

 文京は一番最高な学校

 − ところで、今の教育についてどうお考えですか?

 山浦 昔の生徒とは全然違うから、生活指導も変えて、最近は何も言ってない。しかし、生徒が違ってきているのは、
     母親達が悪いのだと思うね。少子化だからなのか、自分の子のことばかり考え、甘やかしすぎ。学校で喧嘩や、
     教師に怒られるのは当たり前のことで、そうした中で子供が育っていく。しかし「なんで家の子が?」と母親は教
     師を攻め立ててくる。高校でもしょちゅうあるんだ。そんな親ばかりなので、教師陣も熱意をもって頑張ってもバカ
     を見ると、みんな熱く生徒にぶつからなくなった。
      これは子供への悪循環だね。厳しさは愛情の裏返しであること、きちんと育って欲しいという一心であることを、
     理解できない親が多すぎると感じる。

 − 最後に文京時代の感想を・・・。

 山浦 文京は、今までいた高校で一番最高な学校だった!ちょうどいい時代だったのかも知れないな。文京の生徒が
     一番可愛いし、自分の教員生活の中でも一番の原点だね。

   (6月29日、池袋「東方見聞録」で。 井澤公子34期H、芹澤久美子34期F、宇野悦子34期F、清水文代34期F)