戦災と移転(昭和20年~)
昭和20年3月の空襲で一部校舎を焼失。4月13日の空襲では建築中の校舎を含め全てが灰塵に帰した。建てかけの新校舎、講堂、武道場などが一瞬に灰となった。宿直の先生や職員の努力で重要書類は全部搬出したが、百万余の書籍、顕微鏡などを失った。その後一時期、都立九中(現都立北園高)に事務と生徒の一部が移転。しか5月には焼け跡を応急改造して、6教室他を作り授業を再開した。
8月15日終戦となり、校舎を確保するために野口彰校長(2代、昭和20~22年)、奥田教頭が尽力。10月に小石川区関口台町小学校に1、2年生の分教所を開設したが3、4年生の見通しは立たなかった。本郷区長が「将来本校が区内腰を据えるなら校舎問題は本郷区(文京区南半分)で面倒を見る」との申し出が野口校長にあり、21年2月に本郷区の元町小学校に移転し3年生、4年生を収容した。22年4月に元町小学校の講堂で入学式を行い、校舎焼失以来始めてここで全校生徒一つになって授業を受けるようになった。
元町小学校とロマンス坂(昭和22年~)
元町小学校に水道橋駅からは急坂の忠弥坂があった。同じ坂の途中に桜陰女学校があり、その生徒と肩を並べ、胸を弾ませ、数々のロマンスを生んだと言うことでロマンス坂、遅刻坂と文京生には呼ばれた。体育の授業や運動会は現在の校庭で行っていたが、その地に学校が戻ったのは昭和28年9月であった。
戸田橋農場(昭和20年~)
終戦直後は満足な校舎もなく、また食糧事情も悪かったため板橋区荒川河川敷の戸田橋の3千坪の川床で農耕をするようになった。これが戸田農園と言われ、週に一日「食料増産の日」があり、その日は全校の教師・生徒で「戸田橋農場」へ行った。元町小学校のある水道橋から都電で終点の志村坂上まで行き、そこから戸田橋までは全員が鋤や鍬を担いで歩いた。それぞれが割り当ての農地を持って、耕し、麦や芋や玉蜀黍などを栽培した。かなりの収穫があがり全員で配分した。戸田農場は数年間続いた。
豊島中学校から文京高校へ(昭和23年4月)
都立豊島中学校は元町小で授業を再開したが、元町小、文京四中が同居する有様だった。昭和23年4月学制改革で新制高校になった。そのときに都立豊島中学校から、文京区に新しく校舎を持つということで「東京都立文京新制高等学校」と校名改称した。文京区からは富坂(現在の中央大学の理工学部のある場所)が、校地候補として提示されたが、水道橋駅から遠く、崖があるなどで決定を控えた。昭和24年にかっての本郷区長との約束が実現しないことが判明し、豊島区西巣鴨に復帰することに決めた。昭和28年に校舎が完成し創設の地に戻った。既に豊島区には都立豊島高校(都立第十高等女学校)があり、名称はそのまま都立文京高校として現在に至っている。「豊島区に文京高校」があるのは、戦災で校舎を焼失し流転したことによるが、奥田行信三代校長は「文京の意味は文京区ではなく、文の京(みやこ)と考えよ」と言われていた。
◎同窓会設立(昭和23年)
川島校長の呼びかけで昭和20年3月に同窓会が結成されたが、戦時中で会則も役員も決まらず無きがごとくだった。同窓会が会として体裁を整えたのは昭和23年。初代会長に山之内昭夫さん(一期D)が就任し、会則が制定され、入会金は70円であった。また勤労動員での報酬の積立金も充てられた。昭和28年に戸田豊鉄さん(一期A)が3代会長に就任。新校舎完成とあわせて同窓会も活発な活動へとスタートをきった。初めての総会を開催し、会則も見直しが行われ、会員名簿も作成。基礎が確立した。昭和30年に静谷晴夫さん(四期B、現名誉会長)が5代会長に就任し、翌年に「同窓会報」がタブロイド版4ページで創刊。その年の10月に第2回総会が母校講堂で開催され500名余りが参加した。
男女共学(昭和25年4月)
昭和22年の教育基本法制定により男女共学が原則となった。昭和25年4月から全ての都立高で実施となった。男子校の本校は、初めての女子生徒の入学にはいささか戸惑いがあった。先ず初めての女子教員として中屋澄子(数学、昭和25年~42年)、天野(奥田)宣子(化学、昭和25年~36年)、小林(浦川)恵美子(体育、昭和25年~34年)の3先生が25年4月に着任した。また女生徒入学でクラス編成が問題となった。女子の入学はごく少数(卒業時68名)。また男子生徒は大学進学を目指していたが、当時の女子生徒のほとんどが就職希望だった。2クラスを男子組、4クラスを男女混合とした。全て男女クラスとなったのは昭和38年4月から。男女生徒の入学数がほぼ同じ数になったのは昭和45年入学の25期生からで、現在はどちらかというと女子生徒の入学数が若干多い。