妙高高原合宿の想い出
母校創立80周年を迎えましたが、新型コロナ禍の影響で記念会も延期になっています。そこで、建学当時の一期生から三期生全員で妙高高原で合宿した想い出を書きしるしたいと思います。 昭和17年夏、その頃は前年の太平洋戦争開戦後、 … 続きを読む
「紫色旗の下に」から
同窓会誌「紫筍」の名称は、文京小史によると「スクールカラーの紫色と若竹のようにすくすくとあらゆる障害を突き破って躍進するようにと」の造語だということです。 スクールカラーが何故「紫色」なのか・・・・そこで学校創設期に校歌 … 続きを読む
市立三中の思い出
10月3日 3期E組の矢島稔先輩より下記の手紙が当同窓会に届きました。 また、母校支援の為にと言うことで3万円の寄付も頂きました。 ~~~~~ (矢島先輩の手紙) ~~~~~ 2日前に同窓会より11月25日(日)のホーム … 続きを読む
全員米寿到達・三期E組クラス会
開戦直後に入学し、敗戦直後に学窓を離れた三期生も全員満88歳に到達。4月7日、7名参加者、当日一番早く89歳の誕生日を迎える塚田行孝君を含めて全員Keep on goingの心掛けで、日々を余りなく充実して過ごしている様 … 続きを読む
三期E組秋のクラス会
三期生も米寿を迎える歳になりました。戦中・戦後の時期は、同窓生の中で最も勉学の機会を失った仲間でしょう。それでも川島源司初代校長のご指導の下、戦時の学年短縮制の影響で5年間の授業を4年間で修了する体制を他校に先駆けて入学 … 続きを読む
旧制三期E組、担任は川島計冶先生で三期の学年主任も兼ねておられました。先生は
第一東京市立中学校から転任され、母校の設立に際し赴任された川島源司校長以下
5 人のお一人、その中でも一番お若かったと思います。市一中時代は、両川島先生の
専 門は物理・化学で同じてしたので、源さん・計さんとの愛称で生徒からは区別されて
いたとか。川島源司校長は校訓「至誠一貫」を定められた、厳格なご性格で、近寄り
難い雰囲気でしたが、計冶先生は、戦時下でしたので表面上は国策に沿う姿勢は止む
お得なかったのですが、根はリベラリストだったのではないかと思います。何しろ授 業の
分かり易い事、3回に一度は「演示実験」その他の時は、2,3本のチョークだけを持って
教室に現れる・・・・。即座にその日の要点を話された後、黒板に書きながら授業 を進め
る ・・・それが、演示実験と関連づけてお話されるのです。液体空気の演示で金魚を一
瞬にし て氷らせる、超低温のお話です。その授業中におしゃべりしていたH君 (クラス会
には顔 を出さないが)が、前へ呼び出されて「手にかけるぞ」と先生が独特の鹿児島弁
でおっしゃ ると、彼は青くなって萎れている。手に液体空気がかかる が、一瞬にして気
化して無事!
それを題材に断熱膨張・圧縮のお話から空気の液化の方法、ボイルの法則、シャルル の
法則、絶対温度と分子運動と話しを進められる。あのような見事な授業展開は、後にも
先 にも川島計冶先生を置いて他になかったと思い出されます。
四年生になる頃は、昭和20年敗戦の年、戦勝を信じていた私達少年に、先生は軍関係
の学校進学は海軍兵学校(予科)以外は薦めなかったようです。難関の兵学校にクラ ス
から6名も合格したことは驚異的と言えます。その後、川島計冶先生は、ご郷里の 鹿児
島に県立鹿児島工業専門学校の設立される計画があり、同級生の梶島宙雄君(故 人)
のご父君で東京工業大学教授梶島二郎氏が校長として赴任される関係で、同校設 立
にご尽力されるため母校を去ることになりました。先生は、県立鹿児島工専が県立 鹿児
島大学工学部として昇格、そして国立鹿児島大学に移管し、教養課程の教授とし て定年
までご活躍されました。京セラの創業者で、日本航空の再建に当たった稲森和 夫氏は
同校の昭和30年卒業なので、川島計冶先生にはご指導を受けた事と思われま す。
今年の春も旧制三期E組クラス会は13名集合。毎回会う毎にお互いに加齢を感じます が、
酒量もさほど衰えず83+α歳の仲間として楽しく話が弾んだひと時でした(写真 参照)。永山升三