三期E組・平成最後のクラス会

4月6日、銀座の「三昧・高松」にて、平成最後で全員まだ満89歳の日のうちにクラス会と言うことで集合。
何時もながら、学年幹事で医師の小室陽一君から医療体験と健康保持に関してのお話を拝聴し、参加者全員の健康を祝して乾杯! 毎回ながら在学中の思い出や近況報告に話は尽きない3時間余でした。

三期生が生まれた1929年は、その11月に米国ウオール街の株暴落に端を発した世界大恐慌の前後ですが、第三東京市立中学校の入学は日米開戦の翌年春、三年生の秋頃までは、川島源司初代校長のご薫陶のもと、学業に勤しめたものの、昭和19年末も近づく頃からは、学徒動員、B29による空襲で校舎も失い自宅までも焼失する者も多くなり、惨憺たる状態でした。
翌年4年生に進級した4月には、小磯国昭内閣による「決戦教育措置要項」閣議決定で、原則として学校による授業の停止という、とんでもない時期で、細々と授業を受けたものの、最も学業の機会を逸した学年次でしたでしょう。
それに先立つ昭和18年には、中等学校の修業年限を5年から4年に短縮されましたが、本校では、低学年の内から授業内容を縮減しないよう、全国の学校に先駆けてカリュキラムが整えられていたのですが、なかなか思うように行かないのでは無かったかと思います。
そのような中で、海軍では予科兵学校を開設して、全国の中等学校から約4,000名を選抜して特別教育する施策を取って、「決戦教育措置要領」による学業の不足を補おうとした歴史は、今では忘れかけているのではないでしょうか。当時の情勢から皆が軍国少年だったことは否めませんが、それに加えて向学心に燃えた多数の志願者が殺到した中で、三期E組の約50名余のうち6名もの合格者を輩出し、全国平均をかなり上回っていたのは、戦中の混乱のもとでも、本学の優れた教育指導の成果の結果だったと思い返します。
戦中・戦後の混沌とした昭和初期のを体験し、昭和の終わりに60歳前後に到達、その間は余暇もなく我武者羅に働いた時代だったと思い返します。そして平成の30年間は、戦中の失われたチャンスを取り戻すことに努力出来た世代と言えるかも知れません。
さて「令和」になった時代を如何に充実した生涯を過ごすか・・・次回は卒寿を迎える事になる、令和元年11月16日・大安の日に集まる事を約束し、お互いの健在を願いながら散会しました。

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