同窓会誌「紫筍」の名称は、文京小史によると「スクールカラーの紫色と若竹のようにすくすくとあらゆる障害を突き破って躍進するようにと」の造語だということです。
スクールカラーが何故「紫色」なのか・・・・そこで学校創設期に校歌とともに歌われていた「紫色の下に」を紹介して置きたいと思います。
“深き谷間の岩清水・・・・”で始まるこの曲はヨネ・ノグチの名前で戦前から国際的活躍した慶応大学教授の野口米次郎作詞、そして数々の名曲を作った東京音楽学校(現芸大)教授の橋本國彦作曲という一流の作詞、作曲者によるものです。
生徒歌という位置づけで、私ども三期生は、紫色の小旗を指揮に振りながら何かにつけてはよく歌われていました。
その歌詞は現代にそぐわないようで今は歌われないようですが・・・・。何故「紫色旗」なのか?それは当時の東京市のシンボルカラーが紫だということ、現在でも準東京都歌の位置づけにある大正時代に制定された「東京市歌」も“紫においし武蔵野の野辺に・・・”と歌われています。そのスクールカラーも校訓「至誠一貫」と共に伝統されていることは嬉しいことです。
因みに戦前のナンバースクールと呼ばれる学校は東京市立3校に対して、東京府立は23校もあり、市立の学校は設備も教育方針も独特の高い評価を受けていたようです。
三期E組のクラス会、11月17日に間もなく90歳に近づく仲間が集まりました。その折に在学中の住所と現住所の対比表を纏め眺めて旧懐の話し合いをしました。疎開・戦災などで移転したこともあり元の場所に住み続けているのは1名のみ・・・・往時は東京全地域の広い範囲から母校にあこがれて、入学して来た状況を思い出しながら一時を過ごしました。