同窓会ホームページの文京高校小史は、詳細に纏めてあって、特に71年前の4月に戦災で灰燼に帰した校舎の由来と往時の校舎のレイアウトは、私達市三中創設の頃に在学した仲間には、懐かしい思い出を提供してくれます。
入学は74年前、入学式後間もなくの4月18日(土)の昼頃来襲したドウリトル指揮下の東京初空襲の記憶もその一つ・・・敵機襲来の警報が出た頃には、すでに上空に侵入していました。私たちは校舎と講堂を結ぶ渡り廊下に先生方の指導で整然と待機して時を過ごし事なきを得ました。後に噂を通じて聞いた話では、早稲田中学では生徒が校庭に集合していた所を爆撃され死者を出した事です。
もう一つの炊事室につながる渡り廊下には、幾つかの教員室が並び、特に訓育指導の恐ろしかった角原虎市先生の部屋もあり、その強拳的指導には震え上がったものでした。川島源司校長の部屋は本校舎の方にあり、また担任の川島計治先生の部屋も校舎側にあったように記憶しています。
源司校長は全てが一流で揃えるというお考えで、顕微鏡などオリンパスの一級品(当時は英語名でなく高千穂光学製)でした。計治先生の物理・化学の授業は、演示実験を基に進められる素晴らしいものでした。液体窒素を教壇に置かれてその性質から超低温、絶対温度Tの説明から、ボイル・シャルルの法則(PV/T)に話を展開される、そこへ分子運動の事をさし挟んでされる・・・・・また当時戦時下で貴重な薬品を使って作られたネスラー試薬を使っての水質検査など実学も交えて授業を進められたことは懐かしい思い出です。
71年前の4月には、建設中の新校舎もろとも思い出の校舎や機材も失われてしました。川島源司校長はその後、ご郷里の高知に戻られ、現在の高知学園中高校の創設をされたとの事、川島計治先生は当時新設の鹿児島工専(現在の国立鹿児島大学工学部)に転任されました。本学創成期をあの校舎と共に過ごした、戦時中とはいえ懐かしい素晴らしい時代だった様に今でも思い出します。
来年度は米寿を迎える年齢になり、お互いに健康寿命保つことが出来るようにと話し合いながら瞬く間に過ぎた3時間でした。